久々の休暇は、タイのサムイ島で過ごした。
帰りの飛行機の中で、このブログを書いている。35歳も目前となる中で、少し自分の仕事について振り返ってみたくなった。

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27歳から始まった起業生活は30歳の頃に少し落ち着いた。僕自身がフルコミットしなくても、短期的には会社が回る仕組みができた。そこから3年間、32歳ぐらいになるまで、どうも仕事に本気になれなかった。
考えてみると、僕が必死になる原動力はいつも「生きていけなくなる」という恐怖心だったように思う。そして30歳になって会社が順調に回り始め、やっと少しだけ「生きていけなくなる」という恐怖から脱することができた。
「生きていけなくなる」というのは、物理的に「給与がもらえなくなる」とか「飯が食えなくなる」とかだけの話ではない。キズキという会社は、やっとつかんだ「居場所」だったのだ。

居場所のなかった10代の頃を超えて、20代前半の頃はICUやイスラエル・パレスチナ、バングラデシュといった国々が僕の居場所となっていた。けれども新卒で働いた会社を4か月で休職すると、僕はどんどん居場所が消えていくのを感じた。自分が創ったキズキという会社だけが、家族のいない僕にとって大きな居場所となっていた。

その恐怖の時代に戻りたくない、という思いから、30歳から32歳までの間は、ある種の冒険をできなくなっていた。窮地での判断は間違えないようにしていたから事業自体は伸びていたが、「ミッションを達成すること」よりも「自分の居場所を守ること」を優先していた部分は否めない。
(とはいえ、この頃に構想していたことを最近次々と形にしているので、インプットの時期として大事だったようにも思う)

32歳の終わりぐらいから、「このままじゃ、あっという間に歳をとってしまう」と焦るようになっていた。そんな中で33歳の1年間は、経営についてよく悩み考えた。人生で最もつらい時代の一つとなったが、今はいい経験になったと思える。

34歳の1年間はスタディクーポンを通じて出会った仲間たちによって、ミッションに向かって奮闘する楽しさを知れた時間だった。またスタディクーポンだけでなく自治体との仕事が急速に増えたことで、自社だけでなく「社会」について考えることが多くなった。
また初の著書を刊行し、自分自身の生い立ちやミッションについて広く伝えることになった。人前に自分の過去をさらすことはずっと抵抗があったが、さらしてしまった以上隠すことはできない。だったら思いっきり、自分のミッションに自分の人生をかけていこうと思えるようになった。

ひたすら働いたこの一年間、土日休みも月に1回取れれば良い方だった。そんななかで今回の夏休みは一週間、タイにいた。パレスチナ、バングラデシュ、ルーマニアといった国々ほどではないが、タイにも僕の青春が詰まっている。
ひたすら寝て、ひたすらマッサージに行って、翌週から始まる「35歳」をどう生きるか考えた。やっぱり、自分が20代の前半で出会ってきた人たちのための仕事がしたいなと思った。起業してから小さく幾つか途上国での仕事をしてきたが、本気で彼らの抱える課題にコミットしたとは言えなかった。20代の前半、あれだけ僕の人生を変えてくれた人たちに対して何もできていないことは、思い出すといつも心苦しい。罪悪感がずっと消えない。次の1年間の間で、なんらかの足掛かりを作りたい。

そしてもう一つ、何もできていないことは「新卒ですぐにうつ病で退職してしまった経験」についてだ。僕は1年間の引きこもり生活ののちに奇跡的に社会に復帰することができたが、この経験を経て見えたことについて、何も形に残せていない。だから、10月に新しく大きなプロジェクトを立ち上げる。詳細はまだ言えないが、全く新しい事業のため、成否も分からない。改めて次のプロジェクトについて報告するので、その際は皆様応援頂けたら嬉しい。

スタディクーポンの時も、著書を刊行した時も、全く新しいプロジェクトだったから勝手がわからず、胃がキリキリした。多くの人を巻き込んで、時間とお金を使った。でも、意味はあった。
新しいことを始めるときはいつも苦しい。でも、やらなければいけないこと、できることは無数にある。先にあげた二つ以外にも、たくさんの新しい事業を小さく始めている。

こうやって次々と新しい挑戦ができるのも、既存の事業(塾の事業や行政や大学との事業)については、社員たちがどんどん拡大してくれているからだ。正直なところ、社内の既存の事業について僕の出る幕はあまりない。だから僕自身の役割は、この社会・世界の課題を丁寧にとらえて、まだ社会に存在していない持続可能な解決策(ビジネスであれ政策提言であれ)を示していくことだと思っている。

休暇が明けてまた仕事が始まるが、これまで以上に本気で働こうと思う。