エルサレムより
29 木曜日 6月 2006
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29 木曜日 6月 2006
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21 水曜日 6月 2006
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20 火曜日 6月 2006
16 金曜日 6月 2006
15 木曜日 6月 2006
『ロシア生まれの父にイギリス生まれの母を持ち、アメリカで教育を受け、カナダ、英国、フランスで仕事をしてきた人間が、民族ナショナリストであるとはおよそ考えられないことだ。
コスモポリタンを名乗る者があるとすればそれはわたしだろう。
いま以上に多くの言語を話したい。これまで以上に多くの国で暮らしたい。
そして、国外移住は亡命とは違うのだということを、より多くの人にわかってほしい。
それは安住の地を「受け継ぐ」のでなく「選んだ」人間の、一つの帰属のありかたなのだ』
マイケル・イグナティエフという人の書いた「Blood and Belonging」の一節らしい。
久々に胸に響いた言葉だった。
12 月曜日 6月 2006
四日連続の更新。
ルーマニアから離れられるというのは、正直嬉しい。
今までは「試練」と思って乗り切ってきたけど、それも「日常」となると意義を感じなくなってくる。
未だに街中を歩くとよくからかわれる。先週の火曜日は特に最悪だった。
公園を歩いていたらいきなり私の正面に学生集団がやってきて、大笑いし始めた。殴ろうと思ったけど、「「平和」研究所職員が暴行で逮捕」とかルーマニアの新聞で報じられたらシャレにならないだろうと思って、歯をくいしばって無視した。
唯一のアジアからの友人だった台湾人の女の子も最悪だった。
彼女はアイセックで働いているのだが、そのイベントがシビウという街であるので行こうと誘われた。しかし当日の朝待ち合わせ場所に来てみると、誰もいなかった。何度電話しても出ない。何度も電話し、朝の寒い中重い荷物をしょったままで待ち続けた。分かりづらい場所だったから、迷っているのかなと思ったのだ。
ようやく二日後こんなメールが届く。
The fact is just that there's another guy who doesn't hope me to go to Sibiu with you. So I went with some other people to stay in his place. |
たぶん彼氏ではないのだろう。ルーマニア人男性にちょっとやきもち焼いてもらって調子に乗ったのだろう。
ヨーロッパとか中東の男が東アジアの女ほど簡単な女はいないという時がある。
少なくとも私の周りの東アジアの女性はプライドが非常に高いので、その発言に今まで納得がいかなかったが、こういう奴のせいで東アジアの女性たちが貶められているのだなと思った。
(余談だが、最初の文、hopeじゃなくてwantだよね?彼女のメール、ちょっと英語的におかしいと思う。人のこと言えないけど・・・)
正直全然可愛くない子だったし、そういう対象として捉えてなかった分、余計に腹が立った。
だから以下のようにメールを返信することにした。
Give me a break! Who has a romantic interest in such a fucking ugly face like a toad?
(But on second thought, I decided not to swear at her in my poor English.)
一緒に映像系のプロジェクトをこなす予定だったルーマニア人の同僚は、結局イスラエル・パレスチナには行かないみたいだ。「やっぱり忙しいから」と、言い始めた。「協力してくれそうな団体や友人に連絡をとるから、やると決めたら変更はできないぞ」と何度も言ったのにもかかわらず。
「お前を待っていたせいで長期のチケットがなくなったし、お前がやりたいっていうから色んな団体にコンタクトをとったんだぞ!ふざけるな!」
しかし、全く悪びれない彼の表情を見ていて、言う気が失せた。
ルームメイトのアメリカ人も、「ルーマニア人にとって約束は約束じゃないからね。もうアメリカに戻りたいね。」と言う。よくお互いルーマニア人の愚痴を言い合うようになった。
海外に住むと愛国心が芽生えるとよく言うが、私の場合今のところ愛国心は芽生えてこない。でもこの街は好きになれないなというだけは分かった。
さて今後の予定だが、ブカレストからイスタンブールまで、わずかバスで半日、料金5000円程度だということが判明したので、パレスチナ帰りはたぶんブルガリア・トルコよります。更に夏のキャンプにも参加する友人S氏が来たらコソボに入る予定。
「休学までしてやっていることは、バックパッカーじゃん」
という突っ込みはなしでお願い。
余談だけど、ちょうど今、大学のクラスメイトのT氏からおもしろいメールが届いた。
「世界の日本ジョーク集」という新書の筆者がルーマニアに長期滞在していたらしく、ルーマニアでは中国人をバカにする風習があり、アジア人を見るとすぐ「中国人!!」と言ってからかうと読んで知ったので、ゆうすけさんが常に嫌な思いしていないか心配っす。
T君、これは本当かも。
10 土曜日 6月 2006
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09 金曜日 6月 2006
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08 木曜日 6月 2006
もう一年も前の話になってしまうのだけれど、イスラエル人・パレスチナ人との間に対話の機会を創出し、そして日本社会にイスラエル・パレスチナに生きる人々の姿を伝えていくという活動を通して、色々考えさせられたことがあった。
事業規模が大きかったため色々な企業、財団、自治体、また多くの一般市民の方々に多大な協力を頂いたのだけれども、何度か「国際協力」そのものに対して批判を何度かうけたことがあった。
「イスラエル・パレスチナなんて私たちには関係ないだろ。」
内容面での甘さを批判されるのは構わない。むしろ、お願いしたいぐらいだった。
でも、世界で起こっている貧困や紛争を「関係がない」とかたづけてしまうことには、納得がいかなかった。
3年前イラクの人質事件とそれに伴う人質の方々に対する批判が起きたときも、同じことを感じていた。自分たちの選挙で選ばれた首相が自衛隊を派遣し、間接的にイラク延いては中東に大きく関わってしまっている(その行動の是非は別として)。
その中で「イラクなんて関係ない」という態度には、疑問を感じた。(人質になった方々に対して、その認識の甘さを問うものならば理解できるが)
そして二年間、色々なNGOに顔を出した。私自身もいくつかの場所で講演する機会があった。そこにいた所謂「国際協力に携わっている人」たちは、往々にして自分達が生きる社会を見ていなかった。
色々なNGOスタッフの講演を聞いたが、その多くがパワーポイントさえまともに作れてなかった。学生のプレゼンレベルだった。パワーポイントが画面の端で切れてしまって、文字が読めないときさえあった。「人の心に訴える」というとてつもなく難しい作業に対して、認識が甘いのではないかと思った。
九州でのある心理系の学会で講演したとき、私は次のような趣旨の発言をした。
「私たちは、紛争のない状況に生きており、イスラエル人・パレスチナ人に成り代わったかのように「お前ら仲良くしろよ」と言うことなどできない。だからこそ日本社会に訴えるという役割を担わなければ、活動の意義は半減すると思う。」
「私はこの活動を通じて、むしろ日本社会に市民社会、つまり「一人一人の市民が、自分が生きる地域・社会・世界の問題を考え行動していく社会(注:私の解釈)」を創りたかった。そして、それが日本に生きる人々にとって、イスラエル・パレスチナ、延いては世界の紛争・貧困問題を考え行動をおこすきっかけになればと考えている。」
この発言は批判を浴びた。
某大学の教授は、「今の学生は、世界のことに興味ないのか?じゃあ何に興味があるんだ?」と質問を投げかけてきた。この人は日ごろ教壇に立っていながら、何を見ているのだろうと思った。
「本当に彼らの気持ちに成り代われば、もっと何かできるはず」という、「おこがましい」意見も聞いた。
日本にいたとき読んだ「チェンジメーカー」という本の中で、印象的な下りがあった(今手元にないので、不正確な引用になってしまうのだが)。
あるアメリカ人が、著者に向かって、「アメリカ人にはあって日本人には欠けているものがある。それが何かわかるか」という質問を投げかけてきたらしいのだが、その答えは”compassion”だった。
確かに、市民の社会活動への参加率が日本とアメリカでは格段に異なる。
ルームメイトのアメリカ人は、9月にアメリカに帰ってNGOで働くつもりだという。
「アメリカは無数にNGOがあるからね。就職には困らないわ。」
世界の社会企業家たちの多くがアメリカ人だ。その理由が少し分かった。
世界の多様さや美しさを感じながら、そこにある不条理に立ち向かえる存在になること。そして日本(というと、すごく曖昧な定義でいやなのだけれども)に生きる人々に世界との繋がりを生み出しそこに「市民社会」を創り出すということ。
ここ二年間ずっと考え続けた結果、自分のありたい姿がなんとなく分かってきた。
具体的に何がやりたいかと言えば、ジャーナリズムかソーシャルベンチャーとなるのだけれども、それはまた次に書くつもり。
つづく。
06 火曜日 6月 2006
土日は、シビウという街に遊びに出かけるはずだった。諸事情により中止となった。
というわけでいつもと変わらない休日が始まった。
遅く起きた朝は、朝食作りから始まる。お金のない私は、忙しい平日の朝食・昼食をファーストフードで済ませてしまうことが多い。だから休日はちゃんと自分で作ることにしている。
ゆっくり風呂に入り部屋の掃除や洗濯を終わらせたあと、勉強にとりかかる。今日は雨だ。
電子辞書に記録してあるこの一週間で調べた単語を書き出したり、TOEFL用の教材をやっているうちに、降っていた雨がいつのまにか止み、雲ひとつない青空に変わっていたりする。クルージュの天気は変わりやすい。
そんな晴れた時は街の中心にある公園を散歩しながら、いつものカフェに向かう。全席禁煙の上英語メニューもちゃんとある、クルージュの街では珍しい店だ。
この街に数少ない「アジア人」とあれば、店員もすぐに顔を覚えてくれる。数回通ううちに常連客のような態度を受けるようになった。日本にいるときは「カフェに通う」ということが貧乏学生の一つの夢だったが、ルーマニアの物価の中ではそれを実現することができる(といってもケーキと紅茶と頼めば400円はするが)。
クルージュの街の夜の10時の日暮れと同時にカフェは閉まり、その後スーパーへ向かう。少し遅い夕飯の支度だ。
日本とは違うスーパーに並ぶ食材たちをどう料理すればよいのか、初めは悩んだ。料理している時は本当に日本人の友人が欲しくなる。
それでもなんとなく最近料理のコツを掴めて来た。与えられた環境の中で、どのようにして自分好みの料理をつくるか、そんなことが最近は楽しくなってきた。
そんな風にして休日はあっと言う間にすぎていく。
ここに来始めた頃は本当につらかった。
この田舎街では、英語のメニューがちゃんとおいてあるレストランなどほとんどないし、買い物もルーマニア語が使えないときつい。人に話しかけられると言ったら「チャイナ!」と笑われることがあるぐらいで、アジアや中東で感じるような人の暖かさはない。
それでもなんとかやってきた。日本にいる時とは違って毎日を大切に生きた結果、色々なことを学んだと思う。そして、ようやくここにいることが「日常」となってきた。
そして、考えてみれば、もう6月だった。