smashing pumpkins 再結成!?
30 木曜日 6月 2005
30 木曜日 6月 2005
27 月曜日 6月 2005
金曜日の夜池袋を経ち、バスで長岡に向かった。いよいよ一ヶ月先に迫った会議のための準備である。
長岡北という高速バスの停留所に着いたのは朝の4時。眠い目をこすりながら、メンバー4人はブツブツと文句を言う。
この高速バスの中でY嬢の通路挟んで隣に座っていた男が、大変なやつだった。夜行バスの中は消灯の時間を迎え皆が寝静まった後に、いきなり叫びだしポテトチップスをバリバリ食い始めたり、携帯のボタン音を鳴らし続けてたり、よく見ると指には水色のマニキュアが塗ってあった。
僕は気にせず一時間半爆睡してたけど、Y嬢は一睡もできなかったらしい。
バイパス沿いの停留所から階段をくだると、そこは一面の田んぼであった。朝焼けの澄み切った長岡の空気が懐かしい。そこでは今回の夏の合同学生会議開催にあたってご尽力下さっているSさんが車で迎えに来てくださっていた。
今年の夏の「日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議」も長岡市の共催のもと行われることとなったが、昨年秋の中越地震の影響で、昨年度生活させていただいていた山古志村の廃校舎および教員住宅は使用ができなくなった。そこで長岡の方々が探してくださった場所は三島という町。Sさんは三島で酒屋を経営しながら、町興しなど様々な活動に取り組んでいらっしゃる方だ。
夏の宿泊予定施設となっている「大杉会館」というところに連れてってもらう。早朝のため管理人がおらず、中まで拝見することはできなかったが、なかなか良いところにあった。
21 火曜日 6月 2005
テストがキツイ。現在当大学では期末テストの真っ最中だ。今日はフランス語の試験だったが、さっぱりわからなかった。こんなキツイ毎日に限って、ブログの更新をしたくなる。
私が代表をしている某団体のおかげで、月に一度ぐらい何らかのパーティーに招待される。会場は大体一流ホテルだ。貧乏学生のわたくしは、いつもの朝食コーンフレークを食わず、一日中何もくわず、夕方6時頃の開場を楽しみに待つ。
先週は民主党の某代議士のパーティがあった。当団体の皆様をお誘いしたのだが、風邪やら何やらで、結局きたのはたった4人。「うまいものを食いに行くだけです」とお誘いしたのに、この誘いに乗らない当団体の皆様のブルジョワジーぶりがわかる。風邪で休むという方は二名いたのだが、私ならば39度の熱があろうともパーティーに行ったに違いない。栄養をここでつけなければ、どこでつけるのだ。
岡田やら菅やら有名ところの挨拶を左から右に聞き流し、目の前にあるご馳走にのみ視線をやる。意外に狭い部屋で、料理も少ない。これは勝負を早く決める必要があるなと踏む。最近養れてきたパーティ眼が光る。
今回もなかなかハイレベルな料理の数々であった。全日空ホテル、なかなか悪くない。ここで最近行ったパーティーを比較する。
①ホテルオークラ
これは某財団の人に誘われて、クリントンの来日の記念パーティみたいなものにN氏と共に行ったのだった。ここで嬉しかったのは、寿司職人がその場で寿司を握っていたこと。いや~うまかったですな。
②ホテルオータニ
これはイスラエル大使館のパーティで行った。ここで驚きだったのは、中東の料理であるシュワルマがあったこと。なつかしい味である。
③全日空ホテル
今回のパーティで行った。料理の味は文句のつけようがないのだが、いかんせん料理の量が少なかった。これはパーティの主催者側が注文するのか??まぁよくわからんが、ローストビーフは二週して食べた。
次のパーティーは7月1日。
12 日曜日 6月 2005
さて旅日記の続きです。これより前は4月のブログを参照あれ。
ファイサルホテルに移動し、就寝した。このホテルはエルサレム内にある日本人宿であり、ここを訪れるたびに多くの日本人に遭遇する。バックパッカーからジャーナリストまで様々な方が滞在する。ここに滞在する方々とお話するのは非常に楽しい。
朝起きて顔を洗い廊下を歩いてると、旅の仲間のY嬢が同年代の女性と話していた。話してみると当団体のことを知っていたらしい。(当団体の発起人である)F氏が新潟で行われたJICAのタウンミーティングで講演しているのを聞いたとのこと。とても感銘を受けたと言ってくれた。
僕、Y嬢、S氏の三人はこの日JVCというNGOのパレスチナ事業所に行き、ベツレヘムの難民キャンプを案内してもらうことになっていた。聞けばこの女性も、同じNGOに行って10日ほどボランティアとして滞在させてもらうらしい。その後このNGOで働くFさんがホテルまで迎えに来た下さり、事務所に連れて行ってもらった。少しお話した後、ベツレヘムへ。
ベツレヘム、この街はキリストが生誕した場所として知られる。僕は無宗教であるため、キリストの生誕地としての感慨は何もないが、やはりクリスチャンの方からすれば憧れの街なのだろう。
エルサレムからバスに乗って検問所近くで降り、そこから徒歩で検問所を越えた。しばらくすると「壁」が見えた。ここまで間近に、そして建設中の壁を見たのは初めてのことだ。
イスラエルのシャロン首相がヨルダン川西岸地域に壁の建設を決めたのは2002年6月のことだった。パレスチナ人によるテロを防ぐという名目だ。高さは約7、5メートル、幅が約3メートルこの壁は、現在も建設中であり数100キロにもわたる広大な「壁」がすでに建設済みである。
「壁」問題の焦点は、これがグリーンライン(1967年の第三次中東戦争以前の国境、現在のイスラエルとパレスチナの被占領地域の境界とされる)の内側に建設されているということだ。このことでパレスチナ人の土地がイスラエルによって接収されるという問題がおきる。だからこそ国際司法裁判所もこの「壁」の建設に違法判決を下したのである。
さらに皮肉なことに、「壁」の建設には多くのパレスチナ人労働力が投じられている。パレスチナの失業者問題は深刻であり、生活のために自らの生活を分断するこの「壁」の建設に加担しなければならない。
しかし、どんなにリベラルなイスラエル人であっても、この壁に反対する者は少ない。テロに怯える生活の中で、イスラエル人も疲れ切っているのだ。彼らが今一番望んでいるものは、「安全」なのである。僕自身、昨年の夏のテルアビブであと三時間早くバスに乗っていたら、テロに巻き込まれていた可能性があった。海や空や夕日が美しい街の中に突発的におこるテロ、そんな「イスラエル」に生きることが、少しだけわかった気がした。
その後ベツレヘムの中心街に入る。
12 日曜日 6月 2005
今日はK嬢とF氏の誕生日会に参加した。こんな風に話すのはゴールデンウィーク以来か。その他F氏やK嬢のご友人、計8名で吉祥寺にてお祝い。
いつもの「どうしようもない」会話で盛り上がる。こんな風に毎晩のように盛り上がっていた昨年を思い出した。日本・イスラエル・パレスチナ学生会議にたまたま出会って、魅力的な人たちに出会って、それで二ヶ月後にはパレスチナに行って、毎日楽しくてしょうがなかった。それからもう一年が経った。改めて、あの頃自分を夢中にさせたものが何だったかを感じた。
月日は流れても、変わらないで欲しいものは、まだそのままなのかもしれない。