紛争の中の日常

「ガザ」という言葉がニュースになる時はいつも、2・3年おきに繰り返されるイスラエルからの侵攻についてだ。

けれども、美しい海やフレンドリーで優しい人々がいることは、あまり知られていない。
そこでは他の国と同じように、普通の日常が営まれている。

日の沈む頃になると、夕日に赤く染められた海辺に人が集まってくる。いつの間にか、人で砂浜が埋め尽くされる。
日中は暑いから海水浴はこの時間から始まるらしい。

その海辺に行くと、近くの小さな商店からおじさんたちがやってきて、無料でコーヒーを振舞ってくれた。その後コーラを買おうとして財布を取り出しても、お金を受け取ってくれなかった。
世界一のホスピタリティだった。

ヒジャブ(イスラム教徒の女性がかぶるスカーフ)をまいた、一見宗教的な女の子たちは、
「私とこの子のどっちが好み?」
とふざけながら僕に聞いてきた。
世界のどこにでもいる、普通の女の子だった。

でも、ある日一人の若者が僕に言った。
20歳そこそこで結婚したという彼に、「なんで早く結婚したの?」と聞いた時だった。
「俺らはいつ死ぬかわからないから、好きだと思ったらすぐに結婚しないとダメなんだよ」

普通の日常の中に、「戦争」という非日常がある。
それが数十年、パレスチナの変わらない現実だ。

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「ガザ」は僕にとって、憧れの場所だった。

パレスチナはヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれるが、一般の旅行者は「ガザ地区」への入域を認められていない。イスラエル政府から禁止されているからだ。
これまで僕は、5回イスラエル・パレスチナを訪問したけれども一度も、ガザに入ることはできなかった。

今回僕がガザを訪問したのは、僕の大学時代の恩人である上川路文哉さんが開催したビジネスコンテストを見学・協力するためだった。国連にも協力して頂けたことで、僕もガザに入ることができた。
https://readyfor.jp/projects/gazachallenge

大学を出ても職がなく、過激な闘争に身を投じる、あるいは宗教で禁止されているにも関わらず将来に希望が持てずに自殺する・・・
こうした現状のガザ地区に、起業支援を通じて少しでも希望を届けたいと考え、今回のプロジェクトが生まれた。

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ガザの問題の根底には「イスラエルによる封鎖」がある。

イスラエルによって陸・海・空を封鎖されたガザ地区は、資源が足りず停電ばかりするから、産業が育ちにくい。たとえ良い製品を作ったとしても、輸出することもできない。産業がないから、若年者の失業率は60%を超える・・・
どんなに優秀でも、ガザの外に出ることができないから留学のチャンスはほとんど無い。
そして2、3年おきに繰り返されるイスラエルの侵攻・・・・2014年の侵攻では2000人以上のガザの人たちが亡くなった。
絶望する若者たちの間では、自殺が増えて行く・・・

そんな状況でも「何かできることはないか?」と思い、2005年に僕は、日本にイスラエル人・パレスチナ人12名を招致し、1ヶ月に渡る平和会議を行った。(日本・イスラエル・パレスチナ学生会議)
当初はいがみ合っていた12名は、帰りの成田空港で大泣きして離れないほどに結束が強くなった。僕の20代の中で最も大きな成功体験だった。けれども、現地に及ぼすインパクトは、まだまだ小さかった。

イスラエルの「政治」が変わらなければ、根本的な解決はできない。だから僕には何もできることはないのではないか・・・
それから11年間、大学を卒業してからもずっと悩んでいた。

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そして先週、二日間に渡るコンテストが終了した。

優勝は灰から高性能な建材を作ろうとしているグループ、準優勝は重い荷物や車いすの輸送ができる昇降機を作ろうとしているグループだった。他にも有望なビジネスがいくつもあった。

コンテスト優勝・準優勝した若者たちが、抱き合って大喜びしている姿を見たとき、僕は5年前の時自分を思い出した。

僕もうつ病で会社を辞めて仕事がなかった頃があった。
その時にビジネスコンテストで入選し、賞金と様々なアドバイスをいただき、起業家の一歩を踏み出すことができたのだった。
http://kizuki.or.jp/

仕事がない日々は自己肯定感を奪っていったが、起業家として一歩踏み出したことで、世界はガラリと変わった。
僕も「起業」「仕事」によって、生きる希望を回復した人間の一人だった。

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イスラエル・パレスチナ問題に対して、「政治」以外のアプローチで何ができるのか10年以上悩み続けたけれども、今回やっと自分なりの貢献の方法が見つかったことは嬉しかった。

今後数年は国内事業中心にはなるものの、「何度でもやり直せる社会を創る」ことをミッションに掲げた会社として、できることをやっていこうと思う。

最後に、このプロジェクトへの寄付を募っています。
あと30時間で50万の寄付が集まれば、プロジェクトが成立します。
どうぞ宜しくお願いします。

https://readyfor.jp/projects/gazachallenge

5周年

 キズキはこの8月で5周年を迎える。
 
 創業5年目で売上は1億近くに達した。
 創業の頃からやっていた不登校・中退経験者を対象とした「キズキ共育塾」の運営に加え、専門学校・大学を対象とした講師派遣・研修・コンサルティング事業、行政から委託を受けて行っている就労相談・トレーニング事業、ベトナムでの事業など、様々な事業を行うようになった。
 
 特に、キズキの主幹事業である「キズキ共育塾」では、中退・不登校などを経験した若者たち160名が通う塾になった。
 この5年間で関わった若者たちのうち、95%は進路の決定まで導けた。今も多くは生き生きと大学に通っていたり、すでに就職していたりする。
 けれども5%の若者たちは、救えなかった。

 今は正社員10名、アルバイト60名の人たちが働いていて、創業まもないことから今も支え続けてくれているスタッフもたくさんいる。そういうスタッフたちに支えられて、僕はここまでやってこれた。
 一方で、幼かった僕は多くの人と対立してしまった。一時は仲の良かった人たちと、喧嘩別れに終わったことも何回かあった。どの会社でも起こることだとは分かっているが、それでも思い出すたびに苦しい。

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 25歳の時に新卒で入った大企業に、入社4ヶ月で通えなくなり、その後1年以上のひきこもりの生活を経た上での起業だった。27歳だった僕が、「食っていくため」に行った起業だった。経営者としての自覚など、全くないまま始めた事業だった。
 事業を大きくしていくつもりもなかった。創業3年目の直前に、やっと第一号の社員が誕生したぐらいだ。
 
 食っていくために、生きていくために、必死だっただけだった。
 だから、この5年間を思い出すと、正直なところ恥ずかしい気持ちや申し訳なくなることの方が多い。後悔ばかりが頭に浮かぶ。

 けれども、6年目は確実に売上1億を超える。今では、毎月のように新入社員が来るようになった。僕自身の役割も、「起業家」から「経営者」にならなければいけなくなっている。

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 引きこもりだった僕が、ここまでやってこれたのは単なる奇跡だったように思う。
 奇跡は長く続かないことを自覚して、僕自身が成長しなければいけないことを5周年を機に思った。

バングラデシュとイスラム原理主義

バングラデシュという国は、僕の青春を過ごした場所だ。

大学2年生の頃、南アジアを旅する途中にただ立ち寄るだけのつもりだったバングラデシュで、セックスワーカーの女性たちと出会い、その後娼婦街でドキュメンタリー映画を作っていた話は、昔のブログに書いたことがある。*1

https://yasudayusuke1005.wordpress.com/category/バングラデシュ/

この矛盾だらけの社会で自分は何をしたいのか、そして何をすべきなのか、そういう種類のことに悩み続けていた20代前半の頃、その答えを僕にくれたのはバングラデシュで出会った人たちだった。

バングラデシュでできた親友は、ストリートチルドレンたちを見るたびに僕に言った。
「毎年3万人が自殺する日本人よりも、あの子たちが不幸かどうかは分からないわ。人間の幸せなんて、そんな簡単にわかるものじゃないのよ。」

農村から売られてきたセックスワーカーの女性たちは、農村にいるよりもはるかに稼ぎは良かったが、それでも、
「自分の存在は罪だ」
と語っていた。リストカットをする女性もいた。

人の尊厳を守るような仕事をしたいと思うようになったのは、彼らとの出会いがきっかけだった。

それに彼らはとても情に厚く、優しかった。12歳の頃に家を出てからは他者に心を開けなかった僕に、人の温かさを教えてくれたのも彼らだった。

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バングラデシュという国を理解するためには、歴史を知るのがてっとり早いと思う。
第二次世界大戦まではバングラデシュも、隣のインドも、イギリスの植民地だった。その後、ヒンドゥー教徒のベンガル人が多く住む地域は「インド」の「西ベンガル州」として独立した。

一方、イスラム教徒のベンガル人が多く住む地域は「東パキスタン」として独立した。西パキスタン(=現在のパキスタン)とはインドを挟んで1000キロ以上離れているにもかかわらず、同じ国となった。
つまり、バングラデシュは、同じベンガル人の国家を作ることを望まず、民族は違っても同じ宗教を持つ人々と国を創ったのだ。
けれども、その30年後、パキスタン政府が東パキスタン(=現在のバングラデシュ)に対して「ベンガル語」の使用を禁止したことから、ベンガル人の民族意識が高まり、独立戦争が起こる。結果として、「東パキスタン」は「バングラデシュ」として、パキスタンから独立することとなった。*2

このようにバングラデシュは、第二次世界大戦後に一度は「宗教」共同体としての独立を果たしたものの、その後ベンガル人という「民族」共同体としての独立に方針転換した国だ。

「同じイスラム教徒であっても分かり合えなかった」という歴史があったからこそ、バングラデシュの人達はとても他宗教に寛容だ。

また、非常に親日国だ。僕がこれまで訪ねた世界50カ国ぐらいの中で、バングラデシュほどの親日国を見たことがない。
広島・長崎のことを小学校で習うため、戦後の焼け野原から復興・発展した日本に対する印象は極端に良い。それに、バブル期には多くのバングラデシュ人が出稼ぎ労働者として日本にやってきたが、多くの人は日本人との交流を楽しげに語る。

だから、今回の事件で、「日本人だ。殺さないでくれ。」と叫んだ方がいたのことは、とても理解できる。僕がこの場にいたら同じことをしていただろう。

「バングラデシュ人が日本人を殺そうと思うわけがない」
バングラデシュで生活した経験のある者であれば、誰しも思うのではないか。

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そんなバングラデシュだが、僕が現地で映画を製作していた2008年頃、原理主義的な発想を持つ若者たちに出会った。イスラム教がセックスワークをどう捉えているのか知りたいと思い、ウットラー地区(バングラデシュの高級住宅街の一つ)に住む若者たちのイスラム教勉強会に参加したのだ。
ちなみに、50人ほどの参加者は皆、私立大学の学生だった。バングラデシュは平均年収が5万円程度の国であるが、私立大学の学費は年間十数万円にもなる。私立大学に通えるのは、相当の富裕層だ。

「セックスワークについてどう思うか?」
僕はリーダー格の若者にカメラを向けた。するとアメリカで生まれ育ったという彼は、訛りの少ない英語で僕に語った。
「イスラム教では、女性は守るべき存在だとされている。例えば、テレビCMで女性が自らの美しさを使って商品を宣伝しているが、あれはセックスワークと同じでイスラムでは禁止されている。」*3
「この国では度々女性の強姦事件が起こるが、それは正しくイスラム教が実践できていないからだ。バングラデシュは、もっとイスラム教を正しく実践すべきなのだ。正しくイスラムを実践しないから、こんなに社会に問題があふれているのだ。」

今回の事件が起こったグルシャン地区では、近年富裕層の若者のドラッグが度々話題になっていた。富裕層であっても、充実した生活が送れているわけではない。

僕が長く関わったパレスチナでも、ある友人が原理主義に染まっていったことがあった。
元々は酒を飲み、可愛い女の子を追い掛け回していた友人が、数年ぶりに再会すると「敬虔なムスリム」になっていた。「なぜお前はイスラム教を信仰しないのか」と僕に説教を始めた。
ちょうど、イスラエルからの侵攻が激しくなった時期だった。また彼は「仕事がない。何かいい仕事はないか」と僕によく聞くようにもなっていた。

若者たちが何かしらの社会の矛盾を感じた時に、イスラム教はそこに解決策をくれる。「イスラム教の教えを皆が正しく実践すれば、素晴らしい世界が待っているはずだ」と。
そして、一部の若者たちは、イスラム教を信じない者を侮蔑し、糾弾するようになるのかもしれない。

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富裕層のイスラム原理主義者が起こしたテロ事件として、最も記憶に新しいのは9.11だ。
9.11の主犯格であったモハメド・アタは、元々敬虔なイスラム教徒ではなかったが、コネがないために母国エジプトで就職できずドイツに留学した。そのドイツ留学中にイスラム原理主義に目覚めた。(ちなみに、大学を出てもコネがないと就職が難しい状況は、バングラデシュでも同じである)

詳細は9.11直後の朝日新聞での連載をまとめた本『テロリストの軌跡 モハメド・アタを追う』に詳しいが、そこにはヨーロッパでの差別、母国の政治腐敗、その中で徐々に若者たちがイスラム原理主義に目覚めていく過程が描かれている。

アタの母国であるエジプトでは地震が起きても政府は何もせず、食事を配り医療支援をしたのはイスラム原理主義団体「イスラム同胞団」だった。希望を失った若者たちが頼るのは「政府」ではなく、「イスラム原理主義」となってしまう。

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「イスラム原理主義がなぜこれほどまでに広がってしまったのか」を考えると、サウジアラビア人たちがオイルマネーを用いて世界へのイスラム原理主義への普及させたことがあげられる。
実際に9.11の実行犯は、19人中15人がサウジアラビア出身だった。サウジアラビアはイスラム原理主義の源流となっている「ワッハーブ派」を国教とする国だ。

しかし、それだけでは、イスラム原理主義が一部のイスラム教徒たちの心を掴んでしまっている理由にはならない。
そうではなくて、イスラム世界には様々な不正義や疎外があるということ、そのことがイスラム原理主義の拡大の大きな一つの理由なのではないか。
それは経済的なものに限らない。パレスチナ紛争、イラク戦争、イスラム系移民への差別、国内政治の腐敗、若年者の失業・・・

イスラム原理主義の裏にあるのは、昨年のフランスのテロのような「貧困」だけではない。そうではなくて、あらゆる不正義や矛盾なのだ。「貧困」は、あらゆる矛盾の一形態に過ぎない。そして絶望感のその拠り所が「イスラム原理主義」となる。

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先日のクローズアップ現代で、NGOシャプラニールのメンバーとして長くバングラデシュで活動されていた聖心女子大教授の大橋正明さんも、下記のように話していた。

「バングラデシュの人って、最初に申し上げましたけど、本当にいい人たちです。99.99%の人たちは、今回のテロなんかは、とっても受け入れられないと思っていると思いますが、しかし、その人たちの心の中に世界内の、あるいは国内のいろいろな不正義と思えることがたくさんあって、その不正義をどうにかしていかないと、そういうところの、ちょっとささくれ立ったみたいなところから、いろんな過激な思想というのが入ってきてしまうんじゃないかと思っています。そこをどうにかしないといけないだろうと。」

イスラム教の側から見れば、そもそもキリスト教をベースに成り立っている西洋近代社会には多くの違和感があることは変えられないかもしれない。それでも様々な世界の不正義や矛盾の減らしていくことは、確実に原理主義に走る若者を減らすだろう。

だから僕は、自分の会社を通じてあらゆる人たちが包摂される社会を創りたいと強く思う。原理主義に走る多くの若者たちは、社会から包摂されなかったことで生まれるからだ。
ちょうど昨年からはベトナムでも事業を始めたが、僕はあらゆる人々が包摂される社会を、日本だけでなく世界で創って生きたいと強く思っている。

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僕は今の仕事ではイスラム教国と関わりはないけれども、20代前半の青春時代をパレスチナとバングラデシュで過ごし原理主義の若者達と交流を持ったことで、少しだけだけれども原理主義に走る若者達の心情を理解するようになった。(理解はするが、共感はしないが)

僕は宗教学者やジャーナリストではないので、事実誤認があるかもしれない。だから、昔に少しイスラム原理主義の若者達と多少交流があった者から見た風景の一つとして、理解してもらえればと思う。

 

*1
学生時代から作っていたドキュメンタリー映画は昨年から現在プロデューサーの方が加わり、来年の劇場公開に向けて動き出している。7月後半は、3年ぶりにバングラデシュを訪問する予定だった。今回の事件は、その矢先の出来事だった。

*2
この時の様子は、バングラデシュで初めてアカデミー賞の外国語映画部門に出品された、”Cray Bird”(日本未公開)という映画に詳しい

*3
このインタビュー映像をバングラデシュのイスラム教の友人たちに見せると、とても憤っていた。「こんな偏狭な考えをバングラデシュ人のイスラム教の一般の考え方だと思われたら困る」と。原理主義はバングラデシュで一般的なイスラム理解では全くないのだ。

15年前の記憶

川崎市で13歳の少年が殺されてしまった事件は、僕の遠い記憶を呼び覚した。

中3の時に寮を出て祖父母の下で暮らすことになった僕は、地方都市の公立中学に転校した。親もいない、友達もいない、そんな孤独だった僕に話しかけてくれたのは、同じ中学のA君だった。どこに行ってもいつも孤独を感じていた僕は、A君やその友人たちと夜のコンビニにたむろするようになった。

転校して2か月ほど経ったある日、A君が先輩から借りた原付に乗って、隣の中学の女の子たちと遊んでいると(もちろん無免許である・・・)、A君が転んでしまった。幸い大きな事故にはならなかったのだが、問題はA君が後ろに乗せていた女の子がB氏という暴走族メンバーの恋人だったことだ。A君は呼び出されてB氏に殴られ、A君と仲が良かった僕も目をつけられてしまった。

一番苦しかった経験は、家や学校で待ち伏せされるようになったことだった。B氏たちから「来週までに2万円を用意するように」と「カンパ」(=上納金のようなもの)の支払いを要求されたにも関わらず、僕が拒否したためだった。

近所は必ずサングラスをかけて帽子を被って行動するようにしていたが、見つかった時にはボコボコに殴られ顔が腫れたこともあった。(僕はケンカが弱い)

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15年も昔のことなので記憶はだいぶ薄れてしまったのだけれども、今でも鮮明におぼえていることがある。

地元の海の近くでB氏のグループに偶然鉢合わせして数人に囲まれてリンチにあったことがあった。偶然通りかかった警察のおかげで彼らは退散したのだけれども、その後で警察と話す機会があった。

「彼らも大変なんだ。例えばあいつは、小学校の時に親が蒸発して、今は妹と二人で暮らしている。土方の仕事で妹の生活費も稼いでいるんだ。」

僕も彼も社会の弱者同士だと知った。弱者同士でケンカして苦しめ合っている現状をバカバカしいと思うようになった。なんて不条理なんだろうと思った。
その時から、僕は少しずつ大学受験を考え始めた。近所では徹底的に変装をして、この問題から逃げ切ることを決めた。

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僕のケースは特殊なものではなく、地方都市のヤンキーコミュニティではよくある話だと思う。
そして今の僕が、ヤンキーコミュニティの中で苦しんでいる方にアドバイスできることがあるとすれば、「徹底的に逃げ切れ」ということだ。

僕は2年間の猛勉強を経てICUに入った時に、地元のコミュニティから抜けだして東京に出ると、新たな世界が広がっていた。(授業初日は周りに舐められないように、サングラスで大学に行ったことは、今となっては恥ずかしい思い出である)

少年時代に見えている世界はとても狭くて、そこから逃げるとどこにも居場所がないような気がしていたけれども、実は世界はもっと広かったのだ。

異なる価値観の中で生きるために。

20代前半の多くの時間をイスラム教国で過ごした僕は、保守的なムスリムから「イスラム教を信じないお前はダメだ」と言われることがよくあった。残念ながら、日本でイスラム教とは無縁に育った僕にとって、響かない言葉だった。(ほとんどのムスリムは僕の価値観を尊重してくれたが)

同様に、某フランスの事件でも、「フランス人が表現の自由をどれだけ大事しているのか」という話をよく聞いた。けれども残念ながら、それも全く異なる価値観を持つ人たちには届かないのだと思う。フランスの文化で育った人以外に、フランスの価値観は響きづらい。
(僕自身も、保守的なムスリムからの言葉に腹が立ったのと同様に、フランス人からの3.11の風刺画には腹が立った)

「人を馬鹿にする風刺画は表現の自由だ」と主張するフランス人もいれば、「雪だるまは反イスラムかどうか?」を真面目に議論しているムスリムもいる。
フランス人にも「表現の自由」という守りたいものがあるのと同様に、保守的なムスリムにも「イスラム教」という守りたいものがあるのだ。

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先週は連日、講演とインタビューが続いていたのだけれども、「若者の支援において何が大事ですか?」とよく聞かれた。その時にパッと頭に浮かんだのは、「自分の価値観を押し付けないこと」だった。

人は往々にして「自分の価値観」を「社会の常識」として、他者に押し付けてしまうけれども、そこから生まれるのは、絶望か反発しかない。
これについては僕自身も苦しんできたので、一年前のブログに書いた

上記のブログに書いたように、僕自身は大企業の価値観が合わず、自分の存在に絶望して鬱病で1年以上も寝込んでしまった。けれども、結局価値観は変えられなかった。
色々な人に、「お前の考え方は甘えだ」「そんな甘えた奴に起業が成功するわけがない」と言われたが、そのような言葉は僕をますます絶望させるだけに終わった。

若者の支援においても、一人ひとりの価値観をできる限り大事にしながら、どのように社会で自立して生きていくかを考えることが大事だと思っている。かつての僕が必要としていた支援だ。

他の人にとっては取るに足らない価値観であってもできる限り尊重すること、その上で一人ひとりが自立する道を探す手伝いをすることが、支援者の重要な役割だ。

起業から3周年/10代の頃の記憶について

8月に、起業してから3周年をむかえた。いつの間にか30代を迎えていて、先週には31歳になった。
苦しかった10代と比較すると、20代は「起業」をはじめとして意味のあった時代だったように思う。

何度もこのブログに書いているように、20歳でICU入学後イスラエル・パレスチナの平和構築に関わり、その後働きに行ったルーマニアで大きく挫折したけれども、バングラデシュで立ち直り、日本に戻って就職したけれどもすぐに退職、なんとか立ち直って起業・・・

挫折を繰り返しながらもなんとか這い上がり、起業をして3年が経ち、現在はアルバイトやインターンの方々を含めると50名以上のスタッフが働く法人となった。

このブログは20歳の時から自分の考えを整理するためにずっと書いているものだけれども、10代の頃の経験が起業にどう繋がったか、断片的にしか書いたことがなかった。というよりも、どのように書くべきか分からなかった。

だから、30代になり、起業から3年が経ったのを機に、少しだけ書いてみようと思ってブログを更新してみる。

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僕は横浜の中流家庭に生まれて、幼年期はそれなりに楽しく過ごしていた。
ただ、父の暴力癖や女癖の悪さから、3歳の頃から夜中の夫婦喧嘩で起こされていた。カッとなると、何をするか分からない人だった。とうとう、10歳ぐらいの頃に父は外に子どもを作り、帰ってこなくなった。母も精神的にやられてしまい、家に帰ってこない日が増えた。
僕は、これからは一人で生きていかないといけないのだと思った。そして、「人は不完全であること」「人間は自立しなければいけないこと」を学んだ。

12歳の時に家を出て寮に入ったものの、そこではイジメが待っていて、ベッドにゴミ箱を投げられていたり、卵を割られて投げ捨てられていたり、今でも寮にいたころの苦しい記憶は夢に出てくる。
14歳の時に寮を出てからは、祖父母の家で暮らしたり、父の再婚相手とその子どもと暮らしたり、二年おきぐらいに一緒に住む人や住む場所を変えた。

特に、父との再婚相手からは、時に執拗なイジメを受けた。ことあるごとに「お前の生みの母親がいかに汚い人間か」罵られた。改めて「人は何歳になっても不完全であること」を学んだ。

どこにも居場所のなくなった僕は、夜の街だけが居場所になりつつあった。深夜にコンビニの前でたむろしたり、バイクを乗り回したり、そういう中で自分の居場所を探そうとしていた。
ただ、昔からドンくさかった僕は、「明日までに2万もってこい」とカンパ集めを強制され、結局そういった場にもなじめなかった。

本当にどこにも居場所がなかったのが10代の記憶のすべてだ。
偏差値40台の大学進学率も二桁あるかないかの高校に通い、友人も少なかった僕にとって、最後の砦は「大学に行って、人生を変える」ことだった。

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大学受験では、第一志望の東大にはいけなかったけれども、第二志望のICUには合格できた。それが20代最初の思い出だ。1日13時間の勉強を2年間続けた結果だった。

そして一度つかんだ成功体験のおかげで、次の挫折においても「頑張れば、何とかなるかもしれない」と思えるようになった。頑張れば何でも叶うわけではないが、頑張らなければ何も叶わない。絶望の中にいても、なんとか頑張れるかどうかが、その後を分ける。

実際、イスラエル・パレスチナ、バングラデシュ、日本での起業と20代をそれなりに頑張れたのは、大学受験の成功体験があったからだ。
自分が大学に行けるなんて全く思っていなかった人間にとって、「大学進学」の意味は本当に大きかった。

弊社の事業の1つ、受験塾を始めた理由にはそういう思いがある。
中退・不登校などの挫折を経験した若者たちが、もう一度頑張れるように。そして頑張ることで成功体験を積めるように。
そういった成功体験を一回でも積むことが、次の挫折からも彼らを救ってくれることになると思っている。

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起業から3年経った今、行っている事業は下記になる。

中退者・不登校経験者向けの個別指導受験塾の経営。100名弱の生徒が在籍。

高等教育機関で発達障害・低学力などの課題を抱えた学生たちの中退を予防する事業。現在は8校の専門学校に講師を派遣すると同時に、いくつかの大学・専門学校で教職員研修の仕事も頂いている。
大学教職員研修センターさんのウェブにも、紹介頂いてます)

上記2つはビジネスとして行っている事業。加えて、下記が行政関係の事業である。

③東京都の単年助成事業として、「若者社会参加応援事業」
④新宿での委託事業として、新宿区在住の若者とその家族の支援を行う「若年者就労支援室」の運営

さらに、夏からはベトナムでも事業をスタートした。(こちらは、近日中に報告予定)

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10代の頃の経験、20代の頃のイスラエル・パレスチナやバングラデシュでの経験、そういう経験をしてしまった僕は、社会の中で困難を抱えている人たちを支援することを、自分自身の一生かけて成し遂げなければいけないミッションだと思うようになった。

けれども、創業からの3年間は目の前のことをこなしているだけで、あっという間に過ぎていった。この3年間で継続的にご支援させて頂いた受益者の方だけでも、600―700人近くにのぼるが、社会全体から見ればあまりに小さい。

だから、4年目はもっとミッションに忠実に、目の前のことだけでなく「社会」にインパクトを与えられるように努力しなければいけないと思っている。

新入社員の頃

4月になった。
大学に入学してから10年。
フルタイムの仕事を始めた人を「社会人」と呼ぶならば、「社会人」になってからは5年が経った。

この時期になるといつも思い出す。5年前に新卒で大企業のサラリーマンになった僕は、その会社員生活が半年もできなかった。
そして、自分が情けなくてどうしようもなく、鬱にまでなった。今でも想い出すと苦しい気持ちになる、大きな挫折だった。

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会社員生活はしんどいことの連続だった。
油田権益の投資の部署に配属された僕は、基本的には投資管理というバックオフィスに近い業務だった。

お客さんと会う時間がないのであれば、通勤はラッシュを避けたかったが、大企業だからそういうわけにはいかなかった。
足が蒸れやすい僕は夏に革靴を履きたくなかったが、オフィスの中で他社の社員がいなくても、サンダルに履き替えることは許されなかった。

油田開発はいわゆる理数系の知識・バックグラウンドも要求されるのだが、文系の中では数学が得意であったものの、自分の価値を最大限発揮できる分野ではなかった。
何より、「下積み」はつまらなかった。
バングラデシュ帰りだった僕は、「途上国でモノを売らせたら、誰にも負けないのに」と、いつも悔しかった。

最も辛かったことは、「アフリカでの資源投資は、現地に様々な問題を引き起こしていますが、それに対してどう考えていますか?」と上司に聞いても、「考えたこともなかった」としか返事が返ってこないことだった。
神無き時代に絶対に正しいことなど存在しないとしても、自分の事業が社会の中でどのような価値を持っているのか、考え続けたかった。

ここでは働きたくない、けれども飯は食わないといけない、色々なことががんじがらめになって、ある日ぶっ倒れた。

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退職した後は家庭教師のアルバイトで食いつないだ。
といっても、どこかの派遣センターに登録するのではなく、自分でビラを作って、近隣のマンションに撒くところから始まった。
会社員生活での挫折から、誰かの下で働ける気がしなかった。

そうしながらも、自分がやりたいことは何なのか悩み続けた結果、3つの大事なことが浮かんだ。

①自由であること
ラッシュの時間は避けたい。外で打ち合わせがない時は私服で通勤したい。
夏場は打ち合わせ以外の時間はサンダルでいたい。休日出勤しても僕は全然OKだけれども、長期休暇は2週間は欲しい。
仕事に支障が出ない限りの、自由が欲しかった。

②自分の価値を最大限発揮できること
僕は苦手なことになるとモチベーションが、急に下がる。自分よりも圧倒的に得意な人がいるのなら、自分がやる必要はないなと考えてしまう。
大きな組織であれば配属が定期的に代わるため、これは叶わないことだけれども。

③正しいと信じられること
絶対的に正しいことなどないということは理解しているけれども、社会の弱い立場にある人が苦しむような仕事はしたくなかった。
当時は政治哲学の本を読みあさっていたこともあって、「不遇な立場にある人の利益を最大にする」ような仕事であれば、「正しさ」を感じることができるような気がした。

モチベーションに波がある僕は、「その仕事は僕がやる必要はない」と言い訳を常に探していて、だからこういう面倒な条件を作ってしまうのかもしれない。
仕事をするにも、いちいち理由が必要だった。

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これらの希望を叶えるには起業しかない、という諦念のもとに、僕は起業することにした。
法人登記は2011年8月だったから、2014年4月の現在、準備期間も含めれば3年以上経ったことになる。

「会社員として上手く行かなかったヤツが起業なんかできるわけがない」とよく言われたが、自分が楽しく生きていくためには、こういう働き方しかできないと思った。
「売上何千億、何兆の会社を作る」というような、希望に満ちた起業ではなかったけれども、その後3年が経って売上は年々伸び、社員の数もアルバイトを含めれば、40名近くにまでなった。

別に起業じゃなくても、税理士、弁護士、社労士など士業の方々のように個人事業主として生きている人はたくさんいる。
あの時は会社を辞めたら一生終わったかのように思えていたけれども、実は色々な生き方がある。
だから、会社が合わなくても、絶望する必要はなかった。

むしろ20代のうちは、「どんな仕事が向いているか」「どんな生き方をしていきたいか」を実践しながら悩みぬくのがグローバルスタンダードだ。

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5年前に戻れるとしたら、新社会人だった僕自身に伝えたいのは、そういうことかな。
人の生き方はそれぞれだということ、自分の生きる道は悩みながら見えていくものだということ。
威勢のいい仕事の格言よりも、そういうことを教わりたかったと思う。

黒子のバスケ脅迫事件から思ったこと

黒子のバスケ事件の被告人意見陳述が僕のTwitter上で話題だったので、読んでみた。
本当に胸が締め付けられて苦しすぎる文章だった。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/

その犯人の陳述書の中で、僕が印象に残ったフレーズを抜粋する。

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(引用開始)

「いわゆる「負け組」に属する人間が、成功者に対する妬みを動機に犯罪に走るという類型の事件は、ひょっとしたら今後の日本で頻発するかもしれません。グローバル経済体制の拡大により、一億総中流の意識が崩壊し、国民の間の格差が明確化して久しい昨今です。」

「正直に申し上げますと、今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思います。自分は現在は留置所で寝泊まりしております。他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。」

「また、刑務所での服役も全く恐くありません。少なくとも娑婆よりは、人生の格差を自分に突きつけて来る存在に出会うことはないでしょう。いじめがあっても刑務官さんたちは、自分の両親や小学校の担任教師よりはきちんと対応して下さるでしょう。」

「そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。」

「被害者遺族が自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせればその遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。」

「そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。」

「自分がいかに自己愛が強くて、怠け者で、他者への甘えと依存心に満ち、逆境に立ち向かう心の強さが皆無で、被害者意識だけは強く、規範意識が欠如したどうしようもない人間であることは、自分自身が誰よりもよく分かっています。それでも自分は両親や生育環境に責任転嫁して、心の平衡を保つ精神的勝利法をやめる気はありませんし、やめられません。」

(引用終わり)

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同様の経験をした若者たちの支援をずっとやってきているが、ここまで自分の心理を的確に分析し、表現している、知性的な文章を見たことがなかった。
知性はあるから、最低限の倫理はあるから、(秋葉原事件の時のような)人を殺すような犯罪はできない。
ただ、この社会で自分が生きてきた痕跡を残したいと思うから、(何かをするまでは)自殺はできない。

だからこういう犯罪になったのだと思う。

そして、知性があるということは、自分の状況がよく見えて、かつ自分への期待値も高くなってしまう。
さらに「進学校出身」ということからも、自分への期待値の高さがわかる。

「幸福」は他者との比較から生まれないが、「不幸」は他者との比較から生まれてしまう。
周りと比較して、どうして自分だけがこうなってしまったのか、苦しむ。

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僕と彼との違いは、僕が同性愛者ではなかったことと、恋人がいたことぐらいだった。
僕の場合は小学生の頃に父が外に子どもを作って帰ってこなくなり、母も家に帰ってこない日が増え、12歳の時に寮に入ることにした。
けれども寮でも散々いじめに合って、そのあとは祖父母の家や継母の家を転々としながら生活していた。
勉強も運動もできなかったから、学校にも行かなくなっていった。

どこにも居場所はなかった。

けれども、服装に気を遣ったら恋人ができたり、猛勉強したら大学に行けたり、大学に言ったら友人ができたり、就職したら上手くいかなかったけど起業したら上手く行ったり、そういう中で少しずつ自己肯定感を回復させていった。

僕が自分の事業を通じて支援差し上げている若者たちも、僕らが関わる中で少しずつ回復していけるといいなと思っている。なぜなら、「そういう機会や他者に出会えなかった」というだけの紙一重が、年齢を重ねるごとに大きくなり、絶望は深まってしまうからだ。

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中退にしろ、非正規雇用にしろ、家庭の崩壊にしろ、あらゆる「ドロップアウト」の最大の苦しみは、「物語」を紡げなくなってしまうことだ。人は「物語」によって人生を意味づける。
僕だって、くそみたいな10代までの人生に「意味」を与えたいから、今見たいな仕事をしているだけだ。

だから、彼が自分自身の生育環境や挫折に対して、「意味」や「物語」を付与できなかったこと、そのことを悲しく思う。

ルーマニアの思い出

2週間ほど、友人たちと東欧を旅行していた。
ポーランドのクラクフでアウシュビッツを見た後で、ハンガリーを経由して、セルビアのノビサドという街まで南下した。
そこでサッカー日本代表戦を見た後で、友人たちと分かれ、一人旅となった。
タクシーと電車を乗り継いで16時間、ルーマニア北西の街、クルージュナポカを訪れるためだ。

この街には、22歳の頃に一時期住んでいたことがある。
逃げるようにしてこの街を離れてから七年半も経ったけれども、たいして街は変わっていなくて、その風景は忘れかけていた記憶を蘇らせた。

深夜1時47分に列車がクルージュナポカ駅に到着すると、予約していた駅近くの宿に直行した。
翌日は、あの頃と同じようにsmashing pumpkinsを聞きながら、かつて住んでいた家(現在は賃貸募集の看板が出ていた)から川沿いの道を、当時の職場まで20分ほど歩いた。残念ながら当時の職場はホテルに変わっていて、どこに移転したのかは分からなかった。

仕事の休憩中によく通った大きな公園のベンチに腰を下ろして休んだ後に、街の中心にある教会に行った。日曜日ということもあり、途中の道沿いの商店の多くは空いていなかった。東洋人がすれ違う人々の好奇の目線に晒されるのは、当時と全く同じだった。

そして日が暮れる前に、街を見下ろせる高台に登って、何枚か写真を撮った。

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今日は自分のために、あの頃の気持ちを記録しておこうと思う。
今まで書いたことと重複もあるけれども、改めて色々なことを思い出したので。
(一年半前にも、ほとんど同じことを書いたけれども
https://yasudayusuke1005.wordpress.com/2012/03/03/ganbarenai/

僕は大学2年生の夏、イスラエルとパレスチナの若者たち12名を日本に招いて、一ヶ月の平和会議を行った。
その会議は成田空港でイスラエル人・パレスチナ人が大泣きして別れるほどに大成功したのだけれども、一方で僕は強くフラストレーションを感じていた。12名を招いたところで、1000万人以上が住む現地の状況が大きく変わるわけではない。

その頃から、本当に社会にとって「意味」のあることをしたい、と強く思うようになっていた。ここでいう「意味」とは、ロールズ的な文脈における正義に近く、圧倒的な困難な状況にある人々たちが幸福に生きられるような、そういった社会を創る事業のことを指している。

でも何をすべきか、一向に見えなかった。
だから、講演に呼ばれたある学会で「ルーマニアの研究機関で働かないか」という話が来た時には、二つ返事で引き受けることになった。
大学二年生が終わる頃だった。海外に出れば、何かが見つかる気がした。

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実際にルーマニアに行ってみると、そこで働くアメリカ人たちと対等に議論できる英語力がなくて、「意味」のあることをやる以前の段階だった(それまでは非ネイティブとばかり議論していた)。

それに、研究所で働く人々は、行ったこともない国の人々についてあたかも分かったかのように議論をしていて、僕は「本当にそれでいいのか」と悩むようになった。
その国の人々が幸せに生きるための事業をするのであれば、泥臭く現地を這いずり回らなければ、的外れなものになってしまうのではないかと思っていた。

ルーマニアまで来ても、自分が何をすべきかは見えないままだった。
何をすべきか分からないから、何に向かって努力すればいいのかも見えなくなっていった。
たとえ何をすべきか分かったとしても、それをマネージメントするだけの英語力・コミュニケーション力にも欠けていた。

結局、7年前の夏、僕は逃げるようにして、この街から去った。
努力してもどうにもならないことがあることを知ったし、努力しようと思っても体が動かないということも初めて体験した。

そして、ルーマニアの挫折の後も、苦しい時間は続いた。
その後のバングラデシュでも「意味」のあることはできなかったし、諦念の中で就職活動をして日本の大企業に入ることができたものの、すぐにドロップアウトした。
転職先も見つからなかったので、飯を食うために起業せざるを得なかった。近所のマンションにビラを撒いて、英語を教えることで食いつないだ。

それでもやっぱり「意味」のあることがしたかった。

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クルージュナポカの街を歩いていると、あの頃のことをたくさん思い出した。そして、何も成長がなかったように思えた7年間の中に、確かな変化があったことように感じた。
(正直なところ、ずっとこの街に来るのが怖かったのだが、ポジティブな感情が自分の中に生まれてホッとした)

ルーマニアでの挫折から7年近く経った29歳の頃に、事業は軌道に乗って、多くの困難な状況にある人々のお手伝いができるようになった。来年、再来年になれば、もっと事業は拡大するだろう。
あの挫折を通じて他者の弱さを理解できるようにならなければ、今の事業はできなかったように思う。

努力すれば叶うことなんて世の中にはほとんどないかもしれないけれども、それでもこの七年間、諦めなくて良かったと思った。そして何より、あの頃と違って自分自身の可能性も信じられるようになった。

やっと7年半前のルーマニア生活を肯定できるようになった。

生活保護世帯の教育支援について

珍しく時事ネタでも。

僕の専門は福祉と教育の中間領域なので、貧困家庭の教育支援には関心を持って政策的な流れを見ている。

以下、毎日新聞より転載。
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学習支援:貧困断絶へ、生活保護世帯対象に教室開校へ−−東京・府中市
2013年09月19日

生活保護を受給する家庭の子どもが成人後も貧しさから抜け出せない「貧困の連鎖」を断ち切ろうと、東京都府中市が、生活保護世帯の子どもを対象とした無料の学習支援教室「みらサポ」の開校準備を進めている。関連経費886万円を含む補正予算案が18日、9月定例市議会の予算特別委員会で承認され、事業の10月スタートが固まった。【斎川瞳】

「みらサポ」は文化センターなどを利用し、市内4カ所で週2回、放課後に開校。各教室には学習塾などで活動実績がある講師2人が配置され、テスト勉強のサポートや学習指導、進路相談などに対応する。
市によると、市内の生活保護世帯の中学生は今年4月1日現在で154人。今春の全日制高校進学率は市全体の89%に対し、生活保護世帯の子どもは55%にとどまっている。
市は生活保護世帯の学習支援策として、2009年度から通塾費を助成(上限は中学1、2年が年間10万円、3年が同15万円)してきたが、経済的困窮や学習意欲が低いなどの理由から手を挙げる世帯は少なかった。

生活保護家庭で育った子どもは学習環境に恵まれず、成人後に自身も生活保護を受給するケースが多いとされるため、市は「もう少し深い支援を」と「みらサポ」の開校を計画した。
市生活援護課は「より多くの子どもたちに学習の機会を提供し、子どもたちが自分の力でしっかり働き、歩いていける未来をサポートしていきたい」とコメント。各家庭を訪問し、積極的な参加を呼びかけている。
国は8月から生活保護費のうち日常生活費に相当する「生活扶助」の切り下げを開始。3年間で最大10%削減する方針で、学校に通う子どものいる生活保護世帯に与える影響は大きい。このため新宿区や板橋区などは既に生活保護世帯向けの学習支援を始めており、八王子市も教職員OBなどによる本格的な指導を行っている。

府中市の取り組みもそうした流れの一つだが、都内には学習支援に消極的な自治体もあり、支援を巡る地域間格差の解消が急務になっている。
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上記について、基本的には素晴らしい事業だと思うのだが、課題もあるように思ったので備忘録的にかいておく。

・「手をあげる世帯が少なかった」原因が何なのかをちゃんと分析したのか、という課題。元々提供していた年10万の通塾助成費ということは、単純計算で月8000円ということ。これじゃ、週一回の授業受講も難しい(集団授業で、安い塾なら、あり得るかもしれないが・・・)。
さらに、勉強が遅れている生徒は少人数指導でないと厳しい。「意欲」の課題を抱えている生徒であれば尚更少人数での指導が必要だから、必要な授業料は上がってしまう。

授業料が税金から出ることに反発もあるかもしれないが、教育系の投資は「未来への投資」になりうる。中卒で働ける仕事は少ないが、高卒になれば仕事の選択肢は増える。何より基礎学力の欠如は職業選択を大幅を狭める。

貧困の連鎖を防ぐことは、未来のtax eaterをtax payerに変える(つまり将来の生活保護受給者を、将来の税の担い手に変える)ことにも繋がるので、政府から見れば、他の多くの福祉事業と異なり「投資」といえる。
だから本来であれば、税金の支出を正当化しやすいはずである。

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・もう一点、学校外教育バウチャーの可能性について。「生活保護世帯」専門の学習スペースが必要か否か?という点
*ちなみに、学校外教育バウチャーの説明はCFCさんの説明が詳しい。 http://www.cfc.or.jp/

「学校外教育バウチャー」が効果的なのは、「既存の教育産業」を利用できるという点である。ボランティアではなくプロの指導を、貧困家庭の子どもたちにも提供できる点は、機会の平等の観点からすると非常に良い。(今回の府中市の事業は、塾講師経験者が行うということなのでOK)

勿論、既存の教育産業だとソーシャルワーク的な支援はできないが、貧困家庭の子どもたちの中にはそのような支援が必要のない意欲の高い子もいる。そういう子たちは、市場原理の中で指導が洗練されている既存の塾・予備校(教育・指導のプロ)に行ったほうがベターだ。
(もちろん、市場原理が全て正しいなんて、全く思っていないけれども)

つまり、「貧困世帯専門のサービス」しか選べないのではなく、「受益者負担でも成り立つサービス」も含めて選べる社会を作るべきだ。貧困家庭も既存のサービスが使えるようになってこそ、機会の平等が達成される。お金のあるなしでサービスが限定されるなんて、悲しい。

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ちなみに、僕が持っている塾は受益者負担だけれども、それは中退・ひきこもりといった状況は貧困家庭以外にも起こりうるからだ。
そして、現在まで効果を上げている(=保護者がお金を払いたいサービスになっている)からこそ、近い将来貧困家庭の方々にも届けたいといつも思っている。