「私はダニエル・ブレイク」を観た。昨年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品。

監督であるケン・ローチは、社会の流れに翻弄される弱者の側に立った作品を描くが、「私はダニエル・ブレイク」にも「どんな人間も名前を持つ一人の人間だ」という強いメッセージを感じた。

本作は、医者からは就労を禁止されている心臓病持ちの老人が、(イギリス版の)ハローワークで、「就労可能」と認定されてしまうことから物語は始まる。

「就労可能」と認定されたからには、「求職活動」を行わなければ失業給付金がもらえない。だから、老人は街の工場を歩き回って履歴書を配り歩く。
けれども、医者からは就労を止められているから、実際は働くことはできず内定を断らざるをえない。

また、いくら工場を回って履歴書を配り歩いても、国が定めている「インターネット」を使った求職活動を行っていないことで、老人は失業給付金を止められそうになる。
「履歴書を配り歩いたことは、証明できないでしょ?本当に求職活動を行ったの?」とハローワークの職員に問い詰められる。
けれども老人はインターネットを使いこなせないから、国の定める求職活動はできない。

「インターネットを使った求職活動」を義務付けることは、求職活動を証明する「効率」を考えると、一見正しいように思える。しかし、その「効率」を重視することで、インターネットを使えない老人が阻害される。

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「効率」を重視するために、多くの行政機関はKPI(数値目標)を設定する。しかし、そのKPI(数値目標)が的外れだと、何の意味もない行為を多くの人に行わせてしまう。

本作で出てくるイギリス版ハローワークでは、「求職活動をしている人数」を増やす、というKPI(数値目標)が設定されてしまっている。(本来であれば、「実際に就労した人数」をKPIに置くべき)
そのため、「病気で就労できない人に、求職活動を行わせる」という不可思議な状況が生まれている。

さらに、たとえKPIが正しく設定されていたとしても、KPI達成に重きを置き過ぎると、「支援効果が出やすい人」に支援が集中することになりうる。

本作では、インターネットも使えない人は阻害されているが、彼らの支援は時間がかかり「効率」が悪い。だから支援の手も、差し伸べられづらい。

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キズキという僕の会社は、不登校・中退の子たちの塾を「ビジネス」として行っている。
「ビジネス」として行うということは「効率」を重視することである。そして、その「効率」を重視すること自体は、限られたリソースの中で、多くの人を救うためには必要なことだと僕は思っている。

一方で、「社会的インパクト」や「効率」を重視すればするほど、そこから取り残されてしまう人がいる。そのことに、我々は自覚的にならなければならないと思う。

例えば、キズキが頂く授業料の中ではご支援できない方(=宿泊型支援や、医療的な支援が必要な方)について、我々は現状お断りをしなければいけない。

けれども、「本当に圧倒的に困難を抱えた人たち」にも支援の手を届けられるような会社を創っていきたいと、起業家・経営者として僕は改めて思った。

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本作の中では直接描かれていないけれども、2000年前後のイギリスの社会保障政策には「社会投資」という視点があった。

「福祉国家」として有名だったイギリスが、社会保障費の増大で立ち行かなくなり、そこで現れたサッチャーが1980年代に福祉を切り捨てていく。しかし福祉を切り捨てたが故に、「社会」が回らなくなり、失業者が溢れた。
そこで、労働党のブレア政権は「Tax EaterをTax Payerへ」という号令の下、「将来の税の担い手」になる若者の支援が拡充されたのだ。

しかしながら、「将来税の担い手になれない」人たちの支援を、社会保障費が増大している現代社会において、どのように考えれば良いのか。僕はまだ答えが出ていない。

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