少し前に体罰が話題になったけれども、「教育」を語る時、多くの人は自分自身の「経験」に基づいた理想・信念を他人に押し付けてしまう傾向があるように思う。

例えば、その体罰の必要性をサポートする論調の中に、「自分は体罰があったから立ち直れた」というものがある。
ここには、自分に当てはまったことが、他人に当てはまるとは限らない、というのは当たり前の論理が抜け落ちてしまっている。
体罰によって立ち直った人の数以上に、体罰によって潰れてしまった人がたくさんいるかもしれない。

教育とは言うまでもなく、対象となる子・若者の人生そのものに大きく影響を及ぼすものだ。
だから自分の「経験」から導き出された理想や信念を優先することなく、目の前の子がどのような大人に成長するのかという将来の結果を、「論理」で考えなければならない。

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「教育」というのは、誰しも受けてきたものなので、一家言持ちやすい。

たとえば、「いつか教育に関わりたい」というビジネスパーソンは多い。
弊社のところにもよく、「君らのところに通う若者たちに、僕のビジネス経験を話させて欲しい」という依頼がくる。
その話を聞いてみると、それは往々にして自分の経験から得た成功体験を押し付けるだけで、若者たちに本当に役立つ話か?と考えてはいない。

この例にかぎらず、「体罰を受けたから自分は成長ができた」「勉強なんかしなくても、俺は仕事に就けた」「大学の学問は無意味だ」
などなど、エビデンスの欠けた、個人の「経験」にのみ基づいた居酒屋談義はよく耳にする。

個人の「経験」が一般化・普遍化できることなど(教育に限らず)少ないはずなのだが、何故か「教育」に関する議論にはそういうことがまかり通ってしまう。

教育は誰しも受けてきたものだからこそ、「経験」で語りやすいからかもしれない。
ただ、教育を考える上で、目線が「相手」ではなく、「自分」にある人が多いことは、いつも悲しく思う。

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当たり前の話だが、人の人生はそれぞれで、必要な教育もそれぞれだ。
「こういう教育を受けて良かった」とか「こういう教育があれば良かった」などは、原体験としては良いが、それらは「教育」としては不完全だ。
「大学なんて行かなくても俺はうまく行ったし」という言葉も、「グローバル教育が重要だ」という言葉も、全て人によって異なる。

勿論、全てを個別具体的なものにすることができないので、最大公約数的な教育を探りながらも、それでも尚「一人ひとりの状況に寄り添う」姿勢を忘れないようにするしかない。

我々にできることは、一人ひとりに寄り添いながら、自分の「経験」による思い込みを捨てて、「論理」的に対象者のよりよい人生を考えることだと、僕はいつも現場で考えている。

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僕自身は、起業してから二年間で、弊社が関わる塾や専門学校を通じて150名ほどの様々な困難を抱える子ども・若者たちに関わってきた。
だけど、自分の関わる若者・子どもにどうなって欲しいか、なんて答えはなかなか見えない。

ただ、普段接する子ども・若者たちに対して、たった1つだけ願っていることがある。
家庭環境がボロボロだったり、精神的な病気で苦しんでいたり、いじめなどの強いトラウマで引きこもってしまったり・・・

そういう苦しい中であっても、自己肯定感をもって生きて欲しい。
それだけはいつも考えている。