2月の某居酒屋チェーンの過労死の問題を聞いてから、「個の自立」について改めて考えている。

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「個の自立」とは、社会の目線を必要以上に気にする事なく、自分の判断に責任を持ち行動する態度のことだと僕は理解している。

人は本来、自分が幸せになるために、そして他者を幸せにするために生きているはずだ。
ただなぜか、日本社会では、「社会が自分をどう見ているか」が優先されてしまうことが多い。
(現に、丸山真男を始めとした知識人は、「個の自立」を日本の課題だとしてきたことはよく知られていることだと思う)

僕はこれについて、3年前にブログを書いていた。
https://yasudayusuke1005.wordpress.com/2009/02/27/about-freedom/

しかし、かく言う僕も、新卒で入った会社を辞めるときには「ここで辞めたら次の就職先はない。社会の中で行き場所を失う」と悩み苦しんだのは事実だ。
「社会から目線」という呪縛から自らを解き放つことは、日本人として生きてきた以上、難しいことだった。

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2月は、ガイドの仕事を頼まれて、一週間ほどイスラエル・パレスチナにいた。
大学時代の友人たちが各地に散らばっているので仕事の合間に会っていたのだけれども、半ば同窓会のような気分になった。

イスラエル政府から奨学金をもらいながら研究を続ける友人は、「研究で食うのは難しいことだからヘブライ語とアラビア語を完璧にして、研究以外の道でも食えるようにしたい」と話していた。

外資コンサルを一年で辞めて現地で働く別の友人は、「やっぱり好きな仕事がしたいよね」と楽しそうに働いていた。

20代も後半の僕らは、自分がやりたいこと・やるべきことをやる一方で、飯を食うためにもお金を稼がなければいけない。
もう少ししたら、家族を養うようになる友人もいるだろう。

やりたいこと・やるべきことを貫きながらも、生きていくための「責任」を引き受ける―それを「個の自立」と呼ぶのだと僕は思う。

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「死ぬまで働くなら、仕事なんて辞めればいいのに」
それが、「過労死」という言葉を聞いた時の、欧米人一般の反応だ。
(欧米では、一神教の影響からか「個の自立」がアプリオリのものとして存在している)

でも日本では、「自分が幸せ」であることよりも、「社会から評価されること」が時に優先される。
弊社に訪れる中退経験のある若者たちと接していても、それは同じで、「自分が枠から外れてしまった」ことに苦しんでいる子は少なからずいる。社会の目線から、なかなか自由にはなれない。

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そんな状況に対する処方箋は、「繋がり」「ホームベース」のようなものを創ることだと思っている。何があっても自分の存在を認めてくれるコミュニティが存在するか、ということだと思う。すごく逆説的だけれども。

例えば、零細NPOの経営者たる僕は、今、合コンに行っても全くモテない。自分のことを誰も認めてくれず、悲しい気持ちになる。(僕はそれを肩書きのせいだと思い込んでいる)
社会からの目線、という観点でいえば、僕は最底辺にいる。

けれども、一方で友人たちは「いい事業をしているね」と、応援してくれている。
それが、「繋がり」であり、「ホームベース」だ。社会からの目線が低くとも、認めてくれる他者がいる。

何をどこでしていてたとしても、認めてくれる存在がいるかどうか―それが「個の自立」にとって不可欠だと僕は考えている。