僕が三年かけて制作してきた映画について、このブログではあまり書いてこなかった。
なぜかといえば、そこにある世界のあまりの複雑さに、語る言葉が見つからなかったからだ。
 
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映画の主人公であるSという女性は、村から売られ娼婦街にやってきた。
村から売られてきた女性たちは、「マダム」と呼ばれる有力者の元で3年ほど隷属的に働かされるのがこの娼婦街の慣習なのだが、僕がSと出会った頃、彼女はちょうどマダムの元を離れたところだった。
 
彼女は会うたびに娼婦という職業がいかに醜いか、僕に語っていた。
「私たちに、生きている価値はないのよ」
 
保守的なイスラム教社会であるバングラデシュにおいて、娼婦は社会から忌避される存在だ。
たとえ村から騙されて売られてきた女性たちであっても、社会はその存在自体を抹殺しようとする。
そして娼婦たち自身も、その信仰の深さによって、自らを「醜い者」と定義する。
 
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Sと出会ってから3年もの月日が流れ、そのあいだ僕は七回バングラデシュに足を運んだ。
去年の夏のある日、彼女はぼそっと本音を漏らした。
「私は、この娼婦街がそんなに嫌いじゃないわ。外にいるより稼げるしね」
 
この三年間で二人の子どもを産んだ彼女にとって、今の関心事はお金だ。
ダッカの縫製工場で働くよりも何十倍も稼げる娼婦街の方が、居心地がよい。お互い助け合える娼婦仲間たちもいる。
 
そしてもっとお金を稼ぐために、Sは村から売られてきた少女たちを数人、隷属化に置くようになった。
「彼女らがかわいそうじゃないか」と僕が聞くと、 「彼女たちも望んでいるのよ」とSはお茶を濁した。
 
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この娼婦街で学んだことは、他者を分かることの難しさ、世界を理解することの難しさだった。
「かわいそう」に見える人々が実は「かわいそう」ではないという錯覚、「かわいそう」なはずの人々が「かわいそう」ではなくなっていく変化。
僕の見ている世界が、世界の全てではない。そんな当たり前のことに気づいた。
 
考えてみれば、当たり前のことだった。
僕たちがよく分かっているはずの「日本」の経済政策でさえ、様々な論議がある。
同じ「日本」に住んでいるはずの山谷の人々のことでさえ、僕らはよく分かっていない。
それならば、言語も文化も異なる他者のことを分かるのは、もっと難しい。
 
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同期に恵まれたおかげか、サラリーマン生活は意外に快適だ。半年持つか心配だったけれども、数年はちゃんと働ける気がしてきた。
 
でも仕事を通じて、人々を翻弄し続けるグローバル経済の動きを学んだ後は、再びバングラデシュやカンボジアに戻るつもりだ。
その頃までには言語を覚えて、もっともっと彼らの視点で世界を見たい。そして、もし仮に僕に何かできることが見つかれば、彼らに恩返しをしてみたいと思う。
そんな風に生きられれば、僕は人生に満足できる気がする。 
 
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今の僕は、生き急ぐ必要を感じてない。それよりも、他者や世界に対して真摯でありたいと願う。