これまで、うだうだと近代や資本主義、そして「開発」などが無意味であることを書いてきたけれども、それでもバングラデシュのセックスワーカーへの関心は失われなかった。
 
継母と喧嘩して自らの意思でやってきた者、「ダッカに仕事がある」と騙されて売られてきた者、様々なものたちがその娼婦街には住んでいた。
そこでは、多く女性たちがは普通に農村で暮しているよりも多額のお金を手にすることができる、少なくとも若いうちは。
しかし、彼女らは自らのことを「罪」だと呼ぶ。リストカットをしている女性たちも少なくない。
のべ一年弱バングラデシュに滞在し、その最下層にいる人々たちと時間を共有して、人は何によって生きているのか考えていた。
 
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大学時代の多くを、僕は途上国や開発の問題に関心を持って生活していた。
一方で「発展途上」にある人々が、実は先進国の人間たちより幸せであるような気がしていた。
大学時代のゼミの友人が、「カンボジアは貧しくない」というような論文を書いていて、妙に納得したのを覚えている。
 
アマルティア・センは「民主主義のある所に飢餓は存在しない」といったが、近代以前人間は何千年もの間生存してきたわけで、教育や技術がなくても人間それ自体のシステムは機能していた。
だから、貧困のある場所においては、その「貧困」は創られている。近代的豊かさを保障することが、「貧困」の解決策ではない。
(そしてバングラデシュが狭義の「貧困」だとは、そこまで思わない。物乞いでも意外に食べていけるから。)
 
そうではなくて、イスラエル・パレスチナの紛争の中で生きる人々、バングラデシュのセックスワーカーたちは、何を求めていたのか。
曖昧な言葉になってしまうけれども、人が人らしく生きられる権利というか、「尊厳」というか、そういったものであった。
 
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何度か書いているように、最近はワーキングプアの問題に関心がある。
なぜ関心があるのかといえば、
 
1、(少しの間ではあったが)国際協力に携わってきたという責任から
日本の貧困の遠因には、グローバル化による国際競争の進展がある。加えて途上国の労働集約型産業から知識技術集約型産業への移行が、先進国の労働者の職業をますます奪った。
その背景には少なからず「国際協力」による途上国の発展があるわけで、僕は国際協力に関わっている人間こそ、先進国の貧困問題についても考えなくてはいけないと思う。
 
2、自分もワーキングプア予備軍だったから
僕は幼い頃から家庭環境が悪く、小学校を卒業してからは二年おきぐらいに住む場所と人を変えてきた。高校生の頃は学校に行かず毎晩街を彷徨っていた。
そんな僕が所謂一流大学を卒業し大手商社で働けるのも、今は生存の危険を感じずに生きていられるのも、父が予備校のお金を出してくれたことと、祖父母が浪人中住む場所を提供してくれた、からだと思う。二年間勉強に専念したことでなんとか大学にも合格し、その後は父の助けと奨学金により、生活には困らなかった。
あの時、父と祖父母の助けがなければ、僕は今もバイトや派遣で何とか食いつないでいたのかもしれない。
 
3、「尊厳」を巡る問題だから
よく言われることではあるが、日本の貧困は単に「食えない」という問題ではない。
NPOもやいの湯浅氏の著書には、「五重の排除」として、教育課程過程からの排除、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除、公的福祉からの排除、自分自身からの排除、という五つの貧困の段階が挙げられている。
・教育課程からの排除=教育を受けていなければ、いい職業につくことはできない(この背後には親世代の貧困がある)
・企業福祉からの排除=そして非正規雇用のように雇用保険・社会保険に入れず 、失業時の立場も合わせて非常に不安定になる。
・家族福祉からの排除=親やこどもに頼れない
・公的福祉からの排除=「まだ働けるはずだ」「家族を頼れ」という生活保護行政の問題
・自分自身からの排除=上記のような経験から、「自分には生きている価値がない」と思い込んでしまう。
 
僕はバングラデシュのセックスワーカーたちを思い出した。
彼女らはよく、自分に生きている価値があるのか、話し合っていた。
 
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「ダッカに産業はいらない。農村で農業を振興して、生きていけるようなシステムが欲しい。」
バングラデシュ人たちが、よく言っていた。
農村で暮らしながら農業で飯を食っていければ、わざわざダッカに出て行って縫製工場で働く必要もないのだ。
  
日本も同じことが言えるのではないかと最近考えている。
資本主義の最下層で働く人々が、近代以前の社会システムに戻れるような社会の仕組みがあればいいのにと思う。
分かりやすく言えば、ネットカフェ難民が農村に移住して、そこそこの稼ぎでのんびりとコミュニティの中で人間らしく暮せる仕組み、みたいなものが。
そして同時に、農業で飯を食っていける経済的な仕組みが必要となる。
 
競争したい奴はすればいいし、したくない奴はしなくていい。
リバタリアンを「共同体等の価値中立性を信じる立場」と定義するならば、僕はリバタリアンであるし、資本主義以外の価値の中で生きるという選択肢がこの社会にあってもよいと思う。
(僕は自由という近代的価値を最も好んでいるので、近代社会以外では生きていけないのだけれども)
 
四月から会社員になるが、土日を利用してちょっとしたプロジェクトをやっていきたいと思っている。
まだまだプランを練っている段階だけど。
 
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先日、某NPOでボランティアをしていた時に、電話がなった。
「今300円しかありません。どうしたらいいですか?」
 
東京在住の三十代の男性。派遣先を12月頭に解雇されてしまったとのこと。
どうして300円になるまで、放っておいたのだろう。助けを呼ぶ相手はいなかったのか。
ソーシャルワーカーの人が、懸命に対応していた。
 
バングラデシュセックスワーカーたちでさえ、コミュニティを作って助け合いながら生きている。
日本の状況はひどい。