情熱大陸でインドの国連職員が特集されていたのを見た。
昔は純粋に「国連に行きたいなぁ」と思っていたけれども、最近はどうもしっくり来ない。
 
村の女性たちに文字を教えることや、保健教育を提供すること、それ自体の価値が分からないから。
別に文字が読めなくても、病気で多少早死にしてしまったとしても(確かに幼児のうちに死んでしまうのは悲しいが)、それでも何千年も人間社会は回ってきた。
アマルティア・センも「非民主主義が飢餓を生む」というようなことを言っていたと思うけれど、本来の人間社会のシステムそれ自体が飢餓を生み出していたら、こんなに長いこと人間社会は続いているわけがない。グローバリゼーション、政治、人口爆発などそういった要因が絡み合っている。
 
 
昔読んだ本に、「森の回廊」という作品があった。
十年以上前に刊行された作品だが、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しているので、多少知られた本かもしれない。
ミャンマーのゲリラ「民族民主戦線」での3年7ヶ月にわたる従軍記なのだが、政府軍の追撃を交わし、森を彷徨いながら生活する日々の中で、自然のリズムと共に生きる山の民たちに助けられ、共に生活している姿が記されている。
 
作品の詳しい内容は覚えていないのだが、なんとなく感覚は残っている。
イギリスの植民地時代の分割統治政策から現在まで政治情勢に翻弄され続けている姿の一方で、焼畑と共に生きながら精霊を畏怖する人々の美しさを描いていた。
 
 
旧来の社会システムそれ自体の秩序や合理性は、レヴィ・ストロースの時代、四十年も前から言われ続けていることだけれども、現実の社会はそれに追いついていない気がする。
未だに、教育や経済発展が、「それ自体価値のあるもの」として語られているのを見ると、そう思う。
(ちなみに、教育が必要なのは、「教育それ自体が価値を持つから」ではなく、「この社会の中で何か(多くの場合は金)を生み出す人材を生み出すために必要だから」。日本も今のところは、そういう傾向が強いと思う。)
 
だから、バングラデシュのセックスワーカーが力を持つためには教育が必要だと思う一方で、そうでなければ「普通」には生きていけない現在の社会システム自体が不完全な気もする。
教育なんてなくても社会は回っていたのだから、あえて「近代」という社会システムを押し付ける必要はないんじゃないか。しかし、近代化、グローバル化は止まらない。