先月、学生NGO時代の先輩で現在会社員のN氏と飲んでいたとき、「最近NGOとかに転職したいなぁと思う。」という言葉を聞いた。
この前会ったときは、「仕事は適当に、そして週末のドームでの巨人戦観戦を楽しみにしている」、というようなことをおっしゃっていたのだが、結局は正しさのために生きて行きたいと思うようになったと。
 
4年前のあの頃は、給料なんて出なかったし、睡眠は平均2,3時間の週もザラだった。
けれども夢中になれたのは、そこに「正しさ」を感じていたから。
 
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勿論、「正しさ」とは何なのか、客観的なものは存在しない。 
 
日本の製造業を支え多くの人々の生活を便利にした過去の起業家たちは、「正しさ」と言えるかもしれない。
けれども、広く途上国の製造業として考えた場合、工場労働者のひどい実態を少なからず見てきた僕にとっては、それは「正しさ」になりえない。(この辺りは、「ジャマイカ楽園の真実」などに詳しい)
つまりビジネスとは「利益」によって組織が回っている。「正しさ」は二の次である。
これから僕が働く商社も然りで、日本の経済成長を支えた一方で途上国ではひどいことを少なからずしてきた。(勿論、役に立つこともしてきたけれども)
 
一方でNPO・NGOは「正しさ」にその存在価値があるため、常に何が正しいのかを問い続けなければいけない。
それでも、50年後、100年後の世界を見越して「正しい」ことをしているのかは分からない。NPO・NGOの支援者が、そこまで考えているとは僕の経験上思えないのだ。
 
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何が正しくて何が間違っているのかは、もっと真摯に考えなくてはいけないと思う一方で、どこまで論理で詰めて考えても、結局はその人の持っているイデオロギーの問題となってくる。
例えば、リバタリアンのように「自由」に価値を置くのか、 コミュニタリアンのように共同体に価値を置くのか、その人がどういう世界を美しいと思うのかということであり、例えば、同性愛婚を認めないアメリカの人々にとって、ある聖書解釈に生きる価値をおく限り、論理的な説明は通用しない、といったようなものである。
近代以降、主観的な正しさは存在しなくなった。
 
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「宮台的な意味での「強度」によって生きることはできなかったなぁ」とN氏の言葉。
神なき時代に「正しさ」など存在しないとしても、それでも僕は「正しさ」を求めている。