二年前、とある学生団体に頼まれて、イラクの大学生をうちに泊めたことがあった。
 
国際関係論を専攻しようと思っていた当時の僕は、当然のことながらイラク戦争の是非を彼に問うた。
幼かった当時の僕は、彼からの答えに、「アメリカ非難」を期待していた。
 
けれども彼は僕の予想に反して、「隣国からのテロリストからイラクを守っている」とアメリカに対する感謝を述べた。
海外経験も少なく、物事を多面的に捉えることができなかった当時の僕は、本当に戸惑った。
 
 
 
戦争に反対して本の中で、テレビの中で熱弁を振るう「知識人」たちや、各地で行われた自己満足的なデモ行進を思い出した。
爆撃下で苦しんだイラク人がアメリカを礼賛するのならば、日本人があの戦争の是非を問うことにどれだけの意味があるのだろうと思った。
その後何ヶ月か、僕は度々その時のやり取りを、頭の中で反芻していた。
 
 
 
大切なことは、僕は「当事者」でもなければ、「完全なる他者」でもないということなのだと思う。
これだけグローバル化が進んでいれば、世界のある事象が自分自身の存在と無関係に起こっているなんてことは、ありえない。
イラク戦争に関していえば、戦争に賛成し自衛隊を派兵した自民党を与党にしたのは、他でもない日本国民一人一人だからだ。
でも一方で僕たちは、爆撃の恐れを知らないし、フセインの圧制も知らない。
 
 
 
そのときから、僕は、何かを考えるのならば、まずその場を見たいし、そこにいる人の声を聞きたいと思うようになった。
そして可能ならば、その「コミュニティの構成員である」ということに、自分自身を限りなく近づけたいと思う。
(近づいたところで、「当事者」にはなりきれないし、なった気になっちゃいけないけれども)
「自分の言葉」を用いて語れない借り物の思考なんて、いらない。
 
 
歌舞伎町で働いていたり、ルーマニアに住んだりしたのも、山谷やバングラデシュに通ったり、ITベンチャーで働いたりしているのも、一応僕にとってはそういう意味がある。
とにかく世界は広すぎるから、今はとりあえず世界を知りたい。
可能な限り、自分の目で見て自分の頭で考えたい。
その上で、何が正しくて何が間違っているのか、自分は何がしたくて何をすべきなのか、決断しようと思っている。