あるパーティでの二次会でのこと、酔っ払った弟が私の高校時代をおもしろおかしく、周りの人々に語り始めた。
 
小学校を卒業してから弟とは年に数回しか会っていない。
それなのに、全てを知っているかのように、でも事実誤認をたっぷり含みながら、私の過去を「笑い話」として語っていることには腹が立った。
 
私には語りたくない過去や乗り越え切れてない過去が多すぎるわけで、もっとデリカシーをもってほしいなと思った。
少なくとも、誰にも頼らずに1人で生きてきた12歳からの時間を、軽々しく他者の口から語られたくはなかった。
 
 
 
そのパーティには、私と同い年で地元も同じ女性がいて、地元や共通の知人の話に花が咲いた。 
色々と思い出してみると、パレスチナの安宿で出会い旅程を共にした人も隣の中学・隣の高校出身だった。
ハンガリーの安宿でも中学の先輩がいて、その後クロアチア、オーストリアと行動を共にした。
 
そんな出会いはとても嬉しいのだけれども、過去を語るときはいつも、そこにほろ苦さが伴ってしまい、どうもいい気分には終われないなと感じている。
 
 
 
「過去」とは、逃げようとしても月のように追いかけてくるものだから、いつかは乗り越えなければいけないことぐらい分かっている。
でもまだ私は一歩も前に進めてはいない。そんなことを改めて感じた。