私は基本的に「共同体」なるものに興味がない。
 
幼い頃から一番小さな共同体の単位である「家族」というものにも、あまり興味はなかった。だから小学校を卒業して、家を出た。
 
というよりも、最も信頼のおける共同体であるはずの「家族」さえ、私にとっては信頼できるものではなかった。だから「共同体」というものを信じられなくなったのだと思う。
 
 
 
「国家とはアプリオリな存在なのか」という問いは、在日二世である東大教授の姜尚中から発せられるから意味を持つのかもしれないが、竹島が問題になっても「あれは日本の領土だ」と噴きあがる気にもなれず、中国やインドの台頭が連日報道されたところで危機感を持つこともない私も、その問いの答えを探し続けている。
 
 
もちろん竹島が韓国のものになってしまえば、200海里の関係上日本に生きる私個人に経済的な被害があることは理解している。
さらに選挙権を持つ一市民としてこの国に果たすべき責任も感じている。
 
 
しかし、日本という存在に「代替不可能」な何かを感じたり、論理を超えた感情を抱くことが、私の場合あまりないんだと思う。つまり私は日本という存在を単なる「国民国家」、つまり一つの法共同体の範囲、政治・司法権力の範囲としてしか捉えられていないのだ。
 
 
第一、単一民族国家(神話)としての「日本」なんてものができたのは第二次世界大戦以降であって、日本の範囲も日本国民の定義もそれまで常に変わり続けてきた。
厳密に言えば、「日本」文化なんてものは元々存在しなかったし「日本」の伝統なんてものは存在しない。
 
分かりやすく言えば、「日本」文化というとき、そこに琉球の文化は往々にして含まれてはいないのだ。
我々が一般に「日本」を対象として文化や伝統を語る時、そこには必ずと言ってよいほど中心と周縁の問題が内包されてしまっている。
 
 
 
それでも、「日本」に論理を超えた何かを感じるのが多くの日本人にとって「当たり前」のことなのだろう。
でも私は「日本食」と「日本語の本」と「そこそこの衛生状態」さえあれば、バングラデシュに骨を埋めてもいいやと思ってしまうのだ。
 
また、新宿や日暮里の風景に愛着を覚えることはあっても、行ったこともない秋田や和歌山の風景に愛着を感じることはできない。
その意味で「日本」という存在それ自体に論理を超えた「強度」を感じることは難しい。
 
 
 
だから「日本の誇りを取り戻せ」的主張を聞くたびに、「日本が今後世界の中でどのように生き残ればいいか」的主張を聞くたびに、生き辛さを覚えてしまう。そして社会科学の知識を中途半端に得てしまうのも、これまた面倒だなと感じる。
 
 
そして「国家とはアプリオリな存在なのか」という前述の問いの答えを探すことが、ルーマニア生活の最も大きな目的であったりする。