「自己」というものほどわからない存在はなく、だからこそ社会学の対象となり続けたのであるし、80年代後半からは心理学の大きな対象ともなった。
 
そんなことを考えてる今日この頃(ブログを読めばおわかりのように・・・)であるが、そのテーマが今日の社会学の授業にも出てきた。
 
社会学者のルーマンは、「自分とは何であるか」という問いは近代社会特有の問題だと述べた。前近代社会では身分制度の中で、「自分が何者であるか」などという問いは生まれなかったのだ。
 
社会学者のギデンズは「自分とは何なのか」という問いは、何度も繰り返される答えのない問いだ(再帰性)と述べた。これは「自分とは何なのか」という問いに、答えがないことを示している。
 
そして、その中で出る1つの結論が「考え続けることに意義がある」とする、一種の自己肯定化である。しかし、これは「答え」にはなっていない。言ってしまえば「個人の気の持ちようでしょ」ということになる。
 
 
ここで授業は、私の愛読書の1つである小熊英二の「癒しのナショナリズム」を扱った。このコンテクストの中で、「癒しのナショナリズム」の主張を考えると、一層理解が深まる。
 
要するに「自己肯定」という結論に納得の行かない人は、自分の存在とは関係に自己を規定してくれる存在を探す。それが、ある一部の人にとっては「国家」ということになるわけだ。
 
 
 
翻って、私自身のことに目を移してみる。
 
結局、私も「自分を規定するもの」を探し続けているのかもしれない。
それが高校生の時は女の子にモテること(下品な言い方をすれば経験人数)、浪人中はいい大学に入ることだった。今までは「国際協力の団体の代表」だった。
 
全ては「自分探し」という旅の通過点に過ぎなかったのか。