会議が終わって一ヶ月の時間が流れた今、あの時間が私にとって何だったのか考えてみる。12月に会議の準備を始めた時日本人のメンバーは3人、資金のあてもほとんどなく、幾度となく中止案も出た。それから8ヶ月の月日の中で、徐々にメンバーを増やし資金も調達し、なんとか開催にこぎつけることができた。その苦労ゆえ、イスラエル人・パレスチナ人が無事来日した時の感慨は一入であった。

 

メンバー不足のため本格的なプログラム作りに取り組めたのが6月に入ってからということもあり、会議期間中はその準備不足を幾度となく露呈してしまった。代表という観点から見れば、私の仕事には失敗ばかりが目につく。サポートしてくださった方々に対して還元するどころかご迷惑をおかけしてしまったという事実を反省点として受け止め、次回同じことが起こらないように細心の注意を払わねばならない。ただ、そのような多くのサポートのおかげで、私たちの間には、確実に大きな友情が芽生えた。

 

最も大きなことは日本人参加者約25名、延いては交流会等に来て下さった多くの日本の方々にとって、イスラエル・パレスチナで起こっている問題は「遠い」問題ではなくなったということである。また、会議参加者のイスラエル人6名にとってパレスチナで起こっている問題が、パレスチナ人6名にとってイスラエルで起こっている問題が、「他人事」ではなくなったということだ。それは、帰りの際空港で抱き合って泣きながら別れを惜しんだイスラエル人・パレスチナ人・日本人の姿を見た時、確信したことである。

 

会議中、私達は幾度となく対立し、その度に三者間での弛みない「対話」を通して問題解決の道筋を探ってきた。会議期間中の「対立」さえもかけがえのない思い出として胸に焼き付いているのは、全てのメンバーに共通するものである。そして今、参加者たちはそれぞれの場所で、ここで得た友情を「平和」への架け橋として発展させていこうと模索を始めている。その試みの一端を紹介して、私の個人総括の終わりとしたい。

 

一週間ほど前、ある1人のパレスチナ人のメンバーがイスラエルの「友人」に会うためにイスラエルの領域内に入ろうとした。その試みは認められなかったものの、それに対しイスラエルの「友人」たちは、パレスチナ人の「友人」がイスラエルに入れるように協力を始めた。政府に手紙を書き、またパレスチナ自治区内でイスラエル人が滞在できる場所を探し始めたのだ。それはイスラエル人・パレスチナ人が再び会い、「対話」を継続していくためである。

 

日本で8月生まれたこの友情が、いずれ大きな実をつけることを願ってやまない。