ここ数年「公共性」について何かと問題となる。本来それは「人々の意見を聞き取る場所」「人々が議論する開かれた場所」のことだ。それがハンナ・アーレントやハーバマスが議論の対象としてきた「公共性」である。
 
 
ところがナショナリズムを巡る議論の中で、某小林氏などが使う「公共性」とは正反対の意味である。「公共」とは国家を意味してるわけではないし何かを勘違いしてるのかなんだかわからないけど、彼らが意味してるような「一つの方向のために意見・行動を集約する」というような意味ではない。
 
先週の社会学の授業で同内容が出てきた時は、なかなか興奮した。しかも来週の授業では「国民国家」についてやるらしいんだが、そこで扱う参考文献は小熊英二ですよ。今から楽しみである。
 
しかしうちの大学で腰をすえて社会学とかの学問をやるのはやはり厳しい。リベラルアーツですからね。授業が少ない。教員も少ない。いいなと思った教授は皆非常勤だったりする。
 
しかしそろそろアーレントやらハーバマスやらを上っ面だけでなく、しっかり読んでいきたいところ。勉強会とかあったら誘ってください。