現在早朝の六時。大学は終わったというのに、とにかく忙しい。一ヶ月後にせまった「日本・イスラエル・パレスチナ合同学生会議」の準備は毎朝にまで及ぶ。
 
 今最も問題なのは資金だ。これ以上の企業協賛はもうこの時期になると厳しい。企業内カンパ等に資金調達の手段を変更していかねばならない。また特にこの時期、更に広報活動に一層力を入れねばならない。新聞、テレビ、ラジオなどの媒体に露出し、シンポジウム・交流会などで人を集め、日本社会に対し僕らが伝えたいことを発信していかなければ、僕らのやっていることの意味は半減する。
 
 ここまでの一年と三ヶ月の大学生活は、ほぼ全てこの活動に費やされた。日本にイスラエル人とパレスチナ人を招き、対話の機会を創出するということ、そしてイスラエル人・パレスチナ人の一個人としての姿を日本社会に発信するということ、その理念の下で突っ走ってきた。
 
 その中で大学の単位は犠牲にしてきてしまったけれども、様々なことを学んだ。NGOというものも知れたし、社会人に対する接し方も学べた。尊敬するべき先輩方にくっついていくうちに、国際協力のあり方が少しずつわかった。多くのイスラエル人・パレスチナ人に触れるにつれて、勧善懲悪で考えられるほど世界は単純に成り立っていないことを知った。そして、この30人程度の小さな、でも大きな可能性を秘めた組織の代表となって、「責任を負う」ことの厳しさを知った。自分だけは「逃げられない」という状況の苦しさを知った。同時に、自分の夢に多くの人が共感してくれることの喜びも知った。
 
 
 
 
 
 
 長岡にて宿泊予定場所を確認した後、Sさんに長岡駅まで送っていただいた。その後駅の待合室で一眠りして昼が来るのを待つ。長岡プログラム担当のA氏のみ、山古志村の復興作業の手伝いにいくとのことで10時に山古志へ向かった。日本人・イスラエル人・パレスチナ人が10日間長岡にて生活するのであるが、昨年度大変お世話になった山古志村への支援もこの夏のプログラムにある。
 
 A氏を除くほかの三人は11時に長岡市の国際交流センターでここのセンター長のHさんと待ち合わせがあった。ここは昨年度交流会を行った場所であり、今年も交流会等のイベントを行わせていただくことになっている場所である。特にこのHさんは、当会議開催にあたってご尽力いただいている素晴らしい方だ。
 
 事前連絡の遅れなど、役所との対応について様々な点でお叱りを受ける。長岡で行われる10日間のプログラムを当団体の新メンバーA氏がなかなかできる男なので任せっきりにしていたのだが、さすがに手が行き届かなかった点があったらしい。団体に入った早々大きなプロジェクトを任せてしまい、相当大変だったのだろうと推測した。
 Hさんからは会議開催にあたっての様々なアドバイスも頂く。その後、近くに美味しい焼肉定食屋があるというので食べに行くと、Hさんもやってくる。
 
 計一時間ほどお話させて頂いた。空手を教えにイスラエルに三年滞在していた時の話や外務省から派遣されて内戦下のカンボジアに行ってた時の話。様々なお話をしていただいたが、最も印象に残った話は彼の教育に対する姿勢である。
 
 彼は地元の高校生に国際協力のイベントを企画をさせたりしているのだが、それには「学校エリート」を「社会の中のエリート」へという目的がある。高校生のうちから社会に触れることで、社会の中での自分の位置づけを考えてもらおうとしているわけである。「いい大学に入るため」の学習ではなく生涯学習として社会の中で意味付けながら学んでいくこと、そして将来を考える時も「個人目標」を「社会目標」と連動させなければならないと述べる。
 
 僕自身、所謂「エリート」と呼ばれる教育を受けて育ってきた。でもそれが社会の中で何の意味を果たすのか疑問に思い、中学生の時勉強を放棄した。周りの大人からは、勉強は「いい大学」に入って、「いい会社」に入るために行うものだと教えられた。そんなことのために勉強をすることに何の意味があるのか、理解に苦しんだ。そんな僕は、その紆余曲折の中で結局のところ4、5年にわたる空白の時間をつくってしまったのである。
 
 社会学者の宮台真司は「エリート教育とは、単なるエキスパートとしての知識を教えることに留まらない。誰に対して責任を果たすのかというモチベーション(動機づけ)を学習することが大切になる。」と述べているが、それこそが「教育」の果たす大きな役割の一つであろう。
 
 このHさんは、真の意味でのエリート教育をなさっている方だと感じた。実際にこのHさんのもとで、色々とイベントの企画をおこなっている高校生と会うのだが、これがまた素晴らしい高校生であった。そして僕らの活動についても、その意味でも意義があるとおっしゃっていた。
 つまり、僕らのような学校エリート(この時いた三人はICU二人に東大1人)が社会エリートになる上で、社会に触れて様々なことを感じ、成長の糧にしていくことが重要なのである。
 
 
 
 
 
 
 はじめにも述べたとおり、僕がこの活動をしていく中で学んだことは余りに大きい。それは、ただなんとなく大学の講義にでて、読書をするだけでは得られない経験であった。この社会の中で、世界の中で、一人の小さな人間として何ができるのかを試し続けた時間であり、それは今も継続中である。
 
 社会の中で自分の位置づけを知るということ、そしてその中でできる限りのことをし続けること(もちろん自己犠牲なんてものは求めない)。人が社会の中で生きる以上、考え続けなくてはならない問題であるし、でないと社会そのものが成り立たなくなる。だからこそ、例えばボランティアを「偽善」とか陳腐な言葉片付けることには疑問がある。
 さらに付け加えると、この前当団体の院生のメンバーと飲んでた時、サイードの「知識人とは何か」を例に出しながら話題になったことだけれども、「他者」や「社会」を意識しない学問や教育に意味があるとは思えない。(だからこそ現在の「学力低下」の議論は不毛なわけだが、それは機会を改めて書きたい。)
 
 ちなみに、宮台真司がこの「誰かに対して責任を負う」という言葉を用いる時に付け加える注意事項は、この「誰か」が「お国のために」的な発想には基づかないということだ。
 ステイトとネイションを分けた上で、ネイションのためになるように国家を操縦するのが近代の愛国心であり、日本人がよく考えるところの「ネイションが死滅しても残るステイト」はありえないわけ。
 最近の報道やらを見てて思うんだけど、一般的にその辺の理解が薄いんじゃないかな。