靖国神社境内の横にある資料館に入る。エスカレーターを上り展示を見る。

衝撃だった。そこには列強のアジア侵略から、太平洋戦争にいたる過程までが順々に描かれてたのだが、いかに日本軍の行った行動が「仕方なかった」か、そして日本のアジア侵攻によってアジアが「開放」されアジアの人々にどれだけの「勇気」を与えたのかが描かれていた。そこには、過去への反省を未来に結び付けていくような、そんな生産的な試みがなされる土壌はなかった。

「国家」はあくまで国民を守るためのもの。その手段にすぎない。

しかしながら、ここでは日本兵の死を「その勇気をたたえる」のみで、「その死を導いてしまった過去へ懺悔」の姿勢は全くなかった。戦争によって他国の人を殺してしまったことは「仕方なかった」と片つけられるかもしれない。(もちろん、僕はそんな史観を認めないが)けれどもここにある史観というのは、日本兵の死すら美談としてしまい国家の責任を曖昧とする、そんな姿勢だ。自国民を守れない国家など、なんの意味があるのだろうか?

首相の靖国参拝というのを、僕はあくまで「国益」の観点から今まで批判していた。中曽根元首相は20年前靖国参拝を行った時、中国から反発を買い一年後中止した。国会答弁で中止の理由を問われた時、彼は「国益」という言葉を口にした。特に昨今、近隣諸国との関係が経済的にも安全保障的にも重要となってきているのだから、あえてそのような国々の反感を買うような行為は馬鹿げているのだ。

今回資料館に行って少し意見が変わった。この神社を参拝するということは、自国民を守ることより「国体」を重視する国家像を認めることに繋がってしまう。首相がその国家像を持ってしまっていることに、危機感を僕は覚える。

僕のアイデンティティーは「日本人」であり、それ以外の国民にはなりようがない。イスラエル・パレスチナの問題を扱いながらもそこに必ず「日本」を見てしまう僕は、cosmopolitanでありたいと願いながらも日本人であることからは逃れられていない。だからこそ、この史観を僕は認めない。